nutrition

思いの丈を書きます

鈴木先生感想- 私たちは 許されているだけ。

 

文章を書くことは好き。けれど文章を書くことは得意ではない。でもそんな私もこれは書きたい、、ゆっくりでも書かなきゃと思ったのが「鈴木先生」についてのこと。

 

 

 鈴木先生とは

 

 中学校の教師である鈴木は、『ごく普通』の生徒たちの心の問題に向き合うことを自身の教育方針として、自分の受け持つクラスや教え子たちの周りで起こる些細な、ときに重大な事件の数々を誠実に、情熱的に対応している。しかし、その一方では教え子の一人である小川蘇美に対する歪んだ欲望や交際相手である麻美との関係など、自身の心の問題にもひたすら悩む日々を送っている。そうした鈴木の内面を饒舌にかつ克明に描写していく。

(Wikipediaより引用)

 

 

 

最初は匠海くんが出てる〜太鳳ちゃんちゃんが出てる〜みたいな軽いノリで見ようかなってTwitterで呟いたのがきっかけ。フォロワーさんに「絶対好きな内容だよ!」って言われて、Huluで視聴。全10話と劇場版を全部見終わりました。

 

 

 

何だこれは………

 

 

 

何で今まで見てなかったんだろう。そう思うくらいの良作で、私の心の「好き」の部分にストンと入ってきた。学園物のドラマや漫画、アニメは好きなものが多くハマりやすい私だけれど、今まで見てきた学園物の中でも、そのジャンルの何処にも分類しづらい作品だった。

今まで私が見てきた類の学園物は、熱血先生が情熱論、根性論で生徒達を正しい道へと導いていくとても綺麗で美しい青春である。先生という存在もとても神聖に描かれており、ただの大人よりももっと特別な存在として語られていることが多かった。

 

 

しかし鈴木先生はどうだろう。

リアルで生々しく、とても綺麗とは言えない描写が多い作品だった。中学二年生という思春期真っ只中のギスギスした多感で自分勝手さが多い心。そして何よりもへの関心が大きくなる時期である。私がこの年代を舞台にした作品への関心が大きいのは、まさに上記した通りこの思春期という時期の少年少女のというものに関心があるからだ。

生きていく中で10代というのは本当に少しだけの時期だけど、人生の中で一番大事で一番残酷で一番美しくて一番貴重な10年だと思っている。この10年で生きてく上での価値観や性格、人間性などあらゆる面を構成し成長していく期間だと思っているからだ。そしてその10年の間、学校という場所で主に生きていく。性格も趣味も思考もバラバラな人間が一つの空間に押し込められ、共に学んでいきましょうという名目のもとそこで生きていく。

 

 

学校では、みんなが笑顔で楽しく学べる学校環境にしていきましょう。というのが主流であり、誰かが傷ついたり、問題が起きたりすることはなるべく避けられているように思える。けど鈴木先生(長谷川博己)の鈴木式教育メソッドでは楽しくて過ごしやすい雰囲気作りとは少し違っていた。誰もが過ごしやすいように多数派の意見だけを取り入れたり、常識や倫理観から逸脱してるからといって否定するだけではない。きちんと少数派の意見を聞いたり、何故それが駄目なのか、間違っているのかということの意味まで問うてくれるのだ。

 

 

例えば、この鈴木先生では1〜10 話までを通して「避妊の必要性」というテーマが何度も出てくる。私も学校の保健体育で性交渉をする際には避妊具を用いて行う事と習った。妊娠を防ぐため、病気を防ぐため。理由は多様にある。けれど、この学校の性教育により、つけてすればしていいと性交渉を認めているかのようにとる生徒もいるのだ。

鈴木先生避妊はしない派だと言う。それはただ単につけてしない方が快楽を味わえるからという理由ではない。つけてするということに何らかの疑問があるからだ。鈴木先生は相手と話し合い子供が出来てもいい、そういう意思がきちんとあるということを確かめあってからしたいからそれを選んでいる。それが正しいか間違っているのかはわからないし、それは人それぞれに答えがあるはずだから、きっと明確な答えというものは存在しないのだと思う。私はこの鈴木先生避妊はしないというのを聞いた時に、どこかしっくりくる部分があった。

 

私は日々付き合うとはどういうことを指すのだろうと考える。キスをする?体を重ねる?そうすれば付き合っているという?けれど、今、世の中では付き合っていない人間とキスをしたり抱き合ったりする人間は少なくないはずだ。テレビでもネットでも浮気や不倫、一夜だけの関係、そういうものを多々見かける。じゃあ付き合ってなくても抱き合うなら結局付き合うって何?何で浮気も不倫も減らないの?これは避妊をして性交渉しましょうという教えの結果なのだろうと思うのだ。これだけが原因とはもちろん言えないけれど、避妊をすればしてもいいと取れるような中途半端な性教育しか受けてこなかった私たちは性交渉に対する重みや責任感のようなものをどこか薄く感じているのではないかと思って仕方ない。例えば、抱き合うことの気持ちの部分や大切さ、もしくは鈴木先生のような考えを持った人が自分の意見を言っくれるような場所があったら、若年層の性交渉への認識が変わっていたかもしれないと思う。

 

鈴木先生は言う。「私たちには避妊という選択肢がある。それが正しいのではなく、つけてするということが許されている。」のだと。

 

正しいのではなく、許されている。

 

これは凄く大切な言葉だと思った。

避妊についてだけでなく、様々なことに対して言えることだけれど、私たちは何かを選ぶということを選択肢として許されている。決して教えてられたそれが正しいのではなく、許されているだけ。選ぶのは自分自身。だから鈴木先生はつけないという許されている選択をした。今まで避妊はして下さいという言葉に、そうか、そうだよね。とそれくらいにしか感じてこなかったことを鈴木先生を通してより一層きちんと考えなければいけないことなんだと感じることが出来た。

駄目。いけない。それだけではなく、何故ダメでいけないのかをきちんと自分で考え、選択することが大事なのだと思った。

 

 

 

学校生活において、先生が気にかけ手を焼く生徒というのは見るからに問題児で問題が目で見てわかるという生徒が主である。けれどじゃあ、優等生とされる手のかからない生徒は果たして助けを求めていないの? 鈴木先生は言う。「私たちが手のかかる生徒に時間を割けるのは、手のかからない生徒達の心の摩耗の上に成り立っている」と。

手のかかる生徒も手のかからない生徒も同じ年齢であり、同じ中学二年生という時期である。よく「あの子は大人っぽいね。人よりも心が大人だね。」そういう言葉を聞くことがあるけど、私は精神年齢が実体年齢を超えることは絶対ないと思っている。では、何故手のかからない生徒はそう思われ、現に優等生として存在しているのか。それを教えてくれたのは小川蘇美(土屋太鳳)だった。後で気になる登場人物紹介をしたいので簡素的に説明すると、小川蘇美は優等生そのもので鈴木先生も特別視しているようなそんな生徒だ。挨拶も完璧、成績も優秀、先生から好かれる模範生徒のような存在。鈴木先生もそんな小川蘇美を心の拠り所のようにしていた。けれど、ある時に小川蘇美は言った。「私も大人や先生に好かれるいい生徒を演じるから、先生もいい先生を演じてください。」と。

そう。彼女は優等生であり特別な生徒なんかではなく、優等生であり先生に好かれる生徒というのを演じているのだ。これは凄く心がすり減り摩耗する。こういう子達の演じてくれる優等生がいるからこそ、先生は問題児という存在に時間を割くことが出来る。そんな事考えもしなかったけれど、今なら何となく理解することが出来る。私たちは生きていく上でみんな何かを演じながら社会で生きている。優秀な社員だったり、愛想のいい店員だったり、優しくて柔らかい雰囲気のお母さんだったり。小川蘇美のような優等生の生徒はそれを中学二年生という若さで行っているのだ。心が疲れないわけが無い。普通に見える生徒にこそメンタルケアが必要で、時間をかけてやることが大切という考えも一理あるなと思った。

 

 

学校で生活していくということは、様々な意見、正しさ、正義、価値観を持った人達が生活していくということ。多様な意見が存在するけれど、何が正しくて何が間違っているのだろうか。

鈴木先生第九話、第十話ではデキ婚することになった鈴木先生を生徒達が鈴木裁判という名の学級討論にかける。そこはまさに地獄のような空間だった。周りの空気に流されて意味もわからず参加する子達、自分の気持ちだけで動いてしまう発案者、あちらこちらで様々な意見が飛び交い話し合いにならないという空気だった。その後議長としてきちんとまとめ役になってくれた竹地くん(藤原薫)のおかけで鈴木裁判は続くことになるのだけれど、そこからが私は好きだ。まずデキ婚の何がいけないのか、なぜ先生を裁くようなことをしなければいけないのか。色々な疑問から生徒達個人個人の家庭事情が暴露され、泣く子、呆れる子、冷静に聞く子、色んな生徒がそこに存在していた。けれどみんなに共通して言えることは傷つき心を痛めながらも、自分の思いや意見というものを主張し始めていたということ。明らかに成長していた。みんなが傷つき、嫌な思いをしながらでも心はきちんと成長し続けている。成長するというのは傷なしでは成し得ることが出来ないのだなと感じた。

 

ある一人の生徒が、結局鈴木先生は避妊をしたのか、していないのか問う。上記にも記したように、鈴木先生はつけない。そこで初めて生徒達の前で自分の性交渉のあり方を述べる鈴木先生だけど、そこでもまた賛否が出る。それが正しいのか、間違っているのか。無責任なのか。美しいのか。

 

竹地くんは言う。

 

「どっちが正しい、間違ってるじゃない。
両方が並立する考え方もあるんじゃないでしょうか。例えば、僕たちには「つけてする」という選択が許されている。「つけてしなさい」でも「つけてするべきだ」でもなく、それが許されているという考え方。それなら、かち合うことなく分かり合えます。」

これは以前鈴木先生が竹地くんへ送った言葉。竹地くんの中にきちんと残っていてくれたことが嬉しい。

 

そして鈴木先生が言う。

 

「現代は多様性の時代と言われている。だが、果たしてそうだろうか?

確かに、様々な価値観を自由に選択することが許されてはいる。

しかし、その結果、一人ひとりが自分に都合のいい意見に閉じこもり他人の異なった意見に耳を貸さない。

個々の胸の中は、結局、偏った考えに凝り固まって
貧しくなっているんじゃないだろうか?

一人ひとりが、たくさんの価値観を胸に抱き、面倒で苦しくても、向きあい 葛藤し、周りの価値観との共有を一生懸命探れば、僕らには別の道が開けてくるはずなんだ。」

 

 

つまり、個々の考えを持つことを私たちは許されている。その考えが正しいか、間違っているのかは別として、私たちには考えて悩み自分なりの正義を持つことをただ許されているだけなんだ。けれど、その許されている考えるという行為すら放棄してしまう人間も少なくない。鈴木先生の教えを受けた生徒達はこの鈴木裁判を通して、自ら考え、意見し、お互いの意見を聞き、傷つきながらも一生懸命共有するという新しい道を歩んでいるのだ。

 

自分の意見をもつということ、それを他者に意見するということは難しいことかもしれない。相手に合わせて何となくふわふわとしているのが楽かもしれない。けれど何かを必死に考え、それだけを絶対的正義とせず周りとの共有を試みる。生きていく上でとても大切なことなのではないかと思う。

 

これは完全に私の考えなので鈴木先生の教えとは脱線するかもしれないが、この世の中に生きている人、その数だけの正義と愛、考え方がその人たちの中に存在していると思っている。同じような考え方の人間は少なからずいるだろうけど、自分と全く同じ人というのはきっとどこにも存在しない。けれど、生きるというのはそれではいけない。他者の考えと自己の考えを共有し、互いに分かり合うことで私たちは生きている。分かり合うことが難しかったとしても、それを受け入れるということは出来なくても、その考え方に耳を傾け理解する努力をするという姿勢は大事にしたいと思って生きている。

 

私が良しとしている考えは相手にとっては悪かもしれない。私が嫌いで仕方ないものを相手は好きでたまらないかもしれない。良しと思うことも嫌いと思うことも私たちは許されている。けれど、自分の思うその感情や考え方を相手に押し付けるのは間違っているのではないかということ。分かり合うことは難しい。自分の意見を述べるということは自分の心をさらけ出すことだから、傷つくこともある。けど、苦しくて辛くて悲しくても葛藤し自分の考えをしっかりともち、相手と共有するという姿勢が大事なのだと鈴木先生の言葉を聞いて思うことが出来た。

 

 

足子先生(富田靖子)はそれが出来なかった人だ。

鈴木先生も足子先生も生徒を思い、教育というものに熱を持っているという根本は同じだと思う。

けれど、足子先生は自分の考えや教育が絶対だと考え、生徒達に考えさせる教育ではなく、押し付けるという教育をしてしまっていた。そこに自分とは違う考えと教育法をもった鈴木先生が来てしまったため、足子先生は受け入れることが出来なかった。共有し、参考にしようという気持ちすら足子先生にはなかった気がする。どれだけ熱意や愛情を持ったいい人であろうと、自分の考えの押し付けを始めてしまってはもう誰も理解しようとはしてくれないだろうと感じた。生徒達もそれは薄々感じていたのではないだろうか。

 

 

長々とまとまりのない文を書いてきてしまったけれど、ドラマ・映画の鈴木先生を通して私は考えることの大切さを再度学ぶことができた。正しさも正義も自分なりの考えを持つことを許されている。けれどそれは許されているだけ。それが絶対的正義ではないということ。そして物事に対して疑問を持つこと、そこからきちんと納得のいく理由を見出すことも大事なのだと感じた。思考停止させて周りに合わせて生きることは本当に楽だ。けれど私は考える人でありたい。そして周りの人にも考える人であって欲しいなと思う。私の考えとはまた違う新たな考え方を共有して、自分の中の幅を広げたいからだ。私の考えも他人の考えもけして間違いではない。自分なりの思いを抱くことは大切なことだと思う。その考えや思いはその人にしか生み出せなかったものなのだから。

 

私は鈴木先生を見ながら私自身鈴木学級の一生徒だったのだと思う。鈴木先生の教えが絶対ではない。けれど、私がこれから生きていく中で考えることの参考や導きになることだろう。

 

 

 

 

 

ここからは鈴木先生に登場する人物の中で、好きだったり、気になったりした人を個人的な感想と解釈として書かさて頂きます。

 

 

 

 

鈴木先生  

(すずきせんせい)

演- 長谷川博己

 

この物語の主人公であり、2-Aの担任。鈴木式教育法で生徒と向き合う。けど完璧ではないところが好きだった。生徒である小川蘇美のことを欲目で見ていたりとか。でもあれは恋愛感情というより、心の拠り所だったんじゃないかな。他の生徒とはどこか違う異質で神秘的な雰囲気でそれでいて救いの女神のような小川蘇美に母性を感じていたのではと思うシーンが多々あった。教師といえどただの人間なのだから何かに逃避したいという思いもあるんだろうな。生徒一人一人をよく分析していて、考える力が凄い。誰かを否定することもなく、なにか答えを出す訳でもなくて、生徒に考えるという選択肢を与える鈴木先生の教えはとても私の心にも響いた。ただ許されているだけ。この言葉も。その先は自分自身で考えること、という幅を残した教え方。好きだなぁ。間違っているけれど、なんで間違っているのかを教えてくれる先生はいなかったし、他者と違う意見を言うと変な目で見てくる先生もいた。鈴木先生はそれがなかったから本当に好きだった。自分の中で考え、それを大切にし、そこから他者に歩み寄るということを心がけて生きていこうと思う。考えるということの素晴らしさを教えて頂いた。

 

 

 

 

小川蘇美

(おがわそみ)

演-土屋太鳳

 

2-Aの生徒。鈴木先生が欲目で見てしまうのが理解出来てしまうほど綺麗で美しくそして神秘的な雰囲気をもつ少女。クラスに一人はいる他の子とは雰囲気が違う子。本当に綺麗なんだわ…見た目もそうだけど心が。鈴木先生と同じように私も彼女をどこか心の拠り所にしていた。小川蘇美を見る度に安心して、小川蘇美を見る度にときめいていた。この魅力は一体どこから来るんだろう。どうしてこんなに女神様のようにいれるんだろう。でもそれは小川蘇美自身が周りからそう見られるように優等生を演じていたからなんだよなぁ。それがわかった時に、そうか彼女もまた複雑な心を持つ、心を摩耗させているただの少女でしかないんだと実感した。けれど、演じる事が出来る人と出来ない人がいるわけで、小川蘇美はやはりどこか特別な部分があるように感じた。なんだろうなぁ。説明し難いあの雰囲気は。そこにいるだけで空気が変わるというか、ただいるだけで小川蘇美に魅せられる。こんな子がもし中学二年生という多感な時期にクラスにいたら確実に影響されるし、男の子だったら好きになってしまうんじゃないかな〜。現に2-Aには小川蘇美に惚れてる人が何人もいたわけだから。今更小川蘇美のようになりたいわけじゃないし、なれるとも思わないけれど、鈴木先生のように空想上の小川蘇美を心の拠り所にしてしまうことを許して欲しい。それほどに素敵な少女である。映画版の方で小川蘇美が、「自分のことを大切にしてくれる人が少しはいる。だから自分の体には自分のため以上の責任がある。」と言うシーンがあるのだけれど、そんな風に考えたことがなかったから凄くグッときた大好きなセリフ。

 

 

出水正

(いずみただし)

演-北村匠海

 

このドラマを知ったきっかけは匠海くんがこの出水という役で出演しているからだった。とにかく可愛くて、、めちゃめちゃに可愛くて、、。

(それは置いておいて)

出水は厳しい両親に育てられたとても真面目な生徒。彼はクラスの中でも冷静沈着で物事をしっかり落ち着いて捉えることが出来る子だと思う。心の中にちゃんとした自分の意見があっても、伝える術が下手くそな子だなぁ。げりみそ事件とか。優しさもあるからなんだろうけど、真っ直ぐにズバッとは言えないところももどかしく、中学生らしさと彼らしさが出ていて愛しかった…。そんな出水くんが成長したなと思ったのが映画版の鈴木先生だ。

小学校時代、全員参加の記名投票の生徒会選挙に出た誠意や熱意のある友人が、名前が有名な子役俳優の生徒に負けてしまい凄くショックを受けた経験があり、それ以来その小学校出身の出水くん達は無記名投票の中学の選挙では意識的にボイコットしていた。そんな中投票率をあげるために中学でも全員参加の記名投票が行われることに。選挙のシステムに疑問を持った出水くんは選挙に立候補し選挙演説の時に選挙システムのあり方について抗議した。1票に対する思いや重さが全くないやつと本気で投票したやつの1票が同じに扱われるのはいいことなのか。多数決で決めることが本当に正しいのか。少数派の意見は殺されてしまうのか。そう言われてみれば、私が学生の時にも生徒会選挙はあった。私も投票する時に選んだ人間は、知っている人や仲の良い人、その1票に重さがあるなんて考えたことがなかった。真面目なやつが馬鹿を見る。でもそれが生きていくということなのだと出水くんも理解しているのだ。けれど、もし本当にそんな社会なのなら、逃避する、投票しないという逃げ道だけは残しておいて欲しかったと。それを伝えるかのように生徒会選挙を通して意見する出水くんは鈴木先生が始まった当初の彼とは違って見えた。彼が自分の意思で、自分の口を通して意見を述べることが出来たということに深く感動したのだ。そして抗議するために生徒会選挙に臨んだ出水くんはもし自分が当選したら生徒会選挙のシステムを変えるという公約をする。すると出水くんは本当に生徒会長に選ばれるのだ。出水くんはブレない自分なりの考えをしっかり持ち合わせてる子。きっと生徒会長になっても自分なりの考えをしっかり冷静に持ってくれるんじゃないかなと思っている。頑張れ!

 

 

 

 

 

中村加奈

(なかむらかな)

演-未来穂香

 

凄く明るくてきって正義感の強い子なんだろうな。最初は苦手で、空気読めないのかなぁって思っていたんだけど、彼女は出水くんとは逆で思っていることをパッと口に出せるタイプ。それは凄く強さがいることで、中村さんは中村さんなりに沢山考えてるんだなって思った回があった。それは竹地くんがした行動によって中村さんが怪我をしてしまう回。中村さんが挑発したような形になってそれによって怒った竹地くんが中村さんを押して、倒れた中村さんにコンパスが刺さってしまうというシーンがあるんだけど、最初見た時は中村さんまた一言多いよ…って思ったんだけど、竹地くんに挑発的な態度を取ったのにはちゃんと理由があった。竹地くんの言ったある言葉が小川蘇美のことを傷つける発言だったためそれを守るために竹地くんに反発したのだ。私はそれを知った時に中村さんの優しさを初めて知る。その回ぐらいからかな。中村さんと小川蘇美の間に友情が芽生えたのは。小川蘇美にとって中村加奈は心の拠り所になっていたのではないか。そう思うようになった。中村さんといるときの小川蘇美は年相応の女の子に見えた。等身大の飾ることのない中学二年生の小川蘇美がそこにいる。正反対の2人のように見えるけど、それはきっと中村さんだからこそ小川蘇美も飾らないでいられるのだろう。

 

 

 

足子先生

(たるこせんせい)

演-富田靖子

 

 

足子先生〜!!足子先生は清々しいほどに自分本意な人だな〜。しかもそれが他人のことを思ってやっていると思っているところもまた…足子先生は生徒思いではあると思うし、自分なりの教育法で生徒のために教育してるのはとても伝わるのだけど、あまりにも自分が絶対という所が見えていて残念で仕方ない。鈴木先生と対比させて見るような描き方をされているのかなぁ。他者を批判することで自分を正当化するという人がいるというけど、足子先生が正にそれかな。自分とは違う教育法で生徒や先生からの信頼を得る鈴木先生に嫌な気持ちを抱くのはわからなくはないし、人間なら誰しも抱いてしまうかもしれない感情だ。けど、足子先生のその情熱や思いが、変わった行動や心理によって足子先生自身の株を落としてしまっていることが残念で仕方ない。映画版の最後の方で足子先生も少しだけれど変わってきていたから、足子先生もきっとこれから成長していくのだろうと思った。

 

 

 

 

 

 

本当にこの作品を通して、

考えること、正義と正しさのあり方、心というものについて沢山沢山問題提起され自分なりに見つめ直し考え直すことが出来た。何度も記しているが、何かを問題提起され、考えることを許されている。その先、考えるかどうかは受け取る側の自由なのである。すべての出来事において絶対的なものなど存在せず、正しさも正義も価値観も自分の心の中にしかない。それを他者と共有するかどうかも自分次第なのだ。他人と分かり合うことは難しい。私だけがその考えを持って生きていけばいいじゃないか。そう思うことも多々あるけれど面倒くさくて傷ついたとしても自分の心の中をさらけ出し相手との共有をはかることで、また1つ成長出来るのだと感じた。

 

この作品にもっと早く出会えていたら……

と思わない訳では無い。けれど、今この私だからこそこうやって捉えられるのであって過去の自分、もしくは未来の自分は今のように感じないかもしれない。人の気持ちや考えは少なからず少しずつ変わっていってしまうものなのだから。変わるということはけして悪い意味だけではない。だからこそ人の心は面白い。私はこの鈴木先生という作品を1度見るだけの消費物にはしたくない。何度も何度も繰り返しみてその度に色んなことを感じて、考えたい。

 

考えるということは無限であり、自分の中の可能性と知識を広げていく1番の方法なのだと思うから。

 

 

 

ここまでつらつらと長く纏まりのない文を読んで頂きありがとうございました。鈴木先生を見て私が色んな事を考えたように、もし少しでも気になっている方は鈴木先生を見て同じように悩み考えて欲しいと思います。受け取り方は人それぞれ、様々な答えがあると思うから。

 

 

映画  鈴木先生の主題歌のPVでなんとなくの雰囲気を掴んでいただけたらいいなと思います。

 

androp「Rainbows」special movie(『映画 鈴木先生』ver.) - YouTube