nutrition

思いの丈を書きます

楽観的人生万歳

 

久方ぶりのブログ。

そして2023年こんにちは。

いつもいつも有効活用しようと意気込むものの

ツイートして終わりにしてしまっている。

Twitterは簡略化ブログのようなものだと思っていて、140字という短い文をつらつらと簡単に呟けてしまうのが利点でもありダメな所でもあるなと感じる。

もっと見た映画、ドラマ、アニメ、読んだ本、マンガとかの感想書きたいけど、感想を書くのってすごく労力がいる行為でいつも出来ず終いだった……反省。趣味でやってるブログだから、もっと楽しく軽〜く使えばいいんだけどね。

 

2023年。遂に28歳になってしまいました。

まだ28か〜とも思うし、もう28か〜とも思う。

30歳まで後少し。

4月で今の仕事初めて10年になるなぁ。色んなことあったけど何とか頑張ってるなぁ。

あぁ、ここまで来たか……と。

何となく、私の中の勝手なイメージだけど、

20代と30代って大きな違いを感じるというか、

女性は特に生活の変化とか生き方とか、

なんかそういう諸々含めて変わってくるよね。

 

ぶっちゃけると、私自身そんなにこうなりたいとか、こう変わりたいとかあんまりなくて、

10代から好きな物も好きなこともそこまで変化もなくて、30代をそろそろ迎えようとしている今もこのままでもいいかな〜と思うくらい。

座右の銘が「楽しく生きるぞ〜」なので。

楽しくふわ〜っと生きれればいいかなって思ってしまう。

 

でも周りはそうじゃない。

明確に、熱心に、着実に、高みを目指して

自分自身に期待と希望を持って変わろうとしている。心の底から凄いと思う。尊敬する。

夢なんて何もない自分からするとキラキラして見える。私も変わらないといけないなぁと思ったし、焦ったし、何も持ってない事に絶望と違和感を感じた。やっぱり自分ってダメだなって落ち込んだりもした。

 

でも結局人は人、自分は自分なんだよね……

周りに流されやすくて、自分に自信がないから、

他者が正解、自分が間違いって意識がどうしてもあって、こうしなければいけないという強制感を勝手に他者から感じてしまう。別に他人はそんなこと強制してないのにね。

 

10代の頃からそんなに変わってないって前述したけど、全く変わってないわけではなくて、前よりも生きていく上で、自分に合った生き方の選択を出来るようになってきてるなって思う。

こっちよりこっちの方が自分に向いてるっていう選択が出来てるし、選択肢も増えてる。

無駄に生きてきた訳でもないみたい。

 

これから先どう生きていくのか。

まだあんまり分からないし、きっとこれからも分からないままなのかも。

仕事して帰ってきたら家事やってご飯作って、

休みの日には一人で美術館行ったり水族館行ったり、映画を見たり散歩したり、読書してみたり、家でまったりするなんてのもいい。こういう生活をずっと出来たら幸せだよな〜とは思う。

私自身の私のための幸せ。

 

こんなに世の中に人間がいるから、人の数だけ生き方があるだろうし、例え「お前は間違った人生」とか「底辺の人生」って言われたとしても、それはその人の価値観だから自分にはあんまり響かないかも。間違いの底辺の人生楽しく生きてる人間が1人くらいいても、まぁいいよね。

 

10代の頃の地獄を思えば、今はなんだって楽しい

 

 

今年はより手帳を有効的に楽しく使おうってテーマにしていて、今のところちゃ〜んと毎日日記が続いてる。何もかもが3日坊主の私が、1つでも続けられてる事があるというのは日々の励みになるというか、こんなちょっとしたことでも自信に繋がるというか。 

 

あと今年は1人でももっと有意義な時間を過ごしたい。インプット期間にしたい。学びたい。などなど色々テーマを決めてはいるのですが、これもまぁかなりゆるっと。1ヶ月1冊本読もうかな〜とか気になる分野の勉強したり、知識増やして生きる楽しさもうちょっと増やそうかな〜とか。

まだ2月だからどうなるか分からないけど、テーマに沿った1年になるといいな。

 

こんなにふわ〜っと楽観的にゆるゆる生きてて

いいのかなとも思うけど、人生1度きりだしまぁいいかね。楽しければね。将来後悔するとしてもそれはその時……笑  

 

将来どうしてるんだろうね。

今仲良くしてる人達(といってもホントに会って遊ぶのは2人とかだけど)とは将来も仲良く出来てるかな。私は仲良くしたいと思ってても人が変化していくことは止めようがないから、今を思い切り楽しみたいね。

 

 

Twitterでも独り言呟いて、日記にも独り言書いて、ブログでも独り言吐き出して、私ってすごくおしゃべりなのかもしれない。ストレス発散になる笑  今年は週1位のペースでデータ決めてブログ更新したりしようかな〜。有言実行したい。

 

文章書くのは下手くそだけど、本当に楽しい。

う〜ん。そうしよう。

今年のテーマもう1つ追加!

週1で自分で、もしくはお題とかでテーマ決めてブログ更新しよ〜♡ 

 

もう2月だけど、今年も楽しく過ごせますように〜!

 

 

青くて痛くて脆い

 

この映画に出逢えたことを私は一生忘れないだろうと、映画を見終わった今もそんなことを思っています。だから、拙い文でもブログにします。

 

 

青くて痛くて脆い

 

 

 

あらすじ

大学生の田端楓(吉沢亮)は人との付き合いが下手で、秋好寿乃(杉咲花)は無遠慮な発言で周りから浮いていた。お互いひとりぼっちの二人は世界を救うというとんでもない目標を合言葉に秘密結社サークル“モアイ”を結成するが、寿乃が“この世界”からこつ然と姿を消す。そしてモアイは、彼女がいなくなってからただの就活サークルに変貌する。

青くて痛くて脆い の映画情報 - Yahoo!映画より抜粋

 

 

ここより下バリバリのネタバレと物凄い自己解釈をしています⤵︎ ⤵︎

 

 

原作未読のままこの作品を見に行きました。

 

まず見終わって一番強く感じたのは、

田端楓は私だ という程に彼に共感した事です。

 

 

予告で見た

「復讐サスペンス」「この青春には嘘がある」

という言葉。

この2つの言葉と予告を見て私が思っていた映画の内容は、

「大切な秋好という友を、自分たちのつくったサークルモアイによって死んだ知った田端が、そのサークルに復讐する。けれどその秋好と過ごした日々にも実は嘘があった」

こんな感じだろうと予想していました。

けれど実際映画を見てみると

「自分が心を許した秋好が、サークルの形が変わっていくに連れ自分から離れていくように感じた田端が、秋好に裏切られた嘘をつかれたと思い込み、あの時の秋好は自分の世界からいなくなった=死んだとし、変わってしまった秋好に復讐をする」

というものでした。(所感)

 

 

人と関わることを避け、人の意見を否定することをしない。そうすれば自分も相手も傷つかない。

それを人生のテーマにしていた田端楓が、理想を強く掲げ周りから浮こうが信念を貫く秋好と出会う。 

ある意味真逆ともいえる2人。最初は突っぱねていた田端も段々と秋好の考え方に感化されていたように思います。

 

秋好は周りから浮いているのかもしれないけれど、その実、中身は物凄く真っ直ぐで誰の懐にもすっと入っていけるような、誰とでも打ち解けられる人物だなと見ていて感じました。本当に世界を変えたい、変えられる。だから行動しよう。理想を現実にしていこう。普通なら人が考えても躊躇ってしまうようなことも、秋好は出来るという思いひとつで行動してしまうくらいに強い信念を持っています。

 

しかし田端は傷つきたくない、傷つけたくないという思いから人と関わることを諦めているような人です。でもそれを悪いとは思いませんし、私も同じような考えを持っているので共感しました。

思ったところでどうにもならない。理想論をいくらほざいても世界は変わらない。馬鹿げている。そんなことを真っ向から言う人間は恥ずかしい。そんな風に真っ直ぐ信念を持ち理想を掲げる人間を、知ろうともせず斜めからみた感覚で否定してしまう人です。 

 

そんな田端の心を懐柔し、少しずつ変えていったのが秋好です。秋好本人は多分、田端の心を動かし変えたつもりなどないでしょう。自分のやりたいことをやって、思うことを言って、自分の信念を貫いていただけなのですから。

2人だけのサークル。2人だけの世界。

その時間は秋好にとっても大切だったのかもしれないけど、田端にとっては秋好が想像できない程に大切で宝のような時間だったんじゃないでしょうか。

人に心をゆるすことをしなかった田端が、ほんの少し自分の内側に人が入ることをゆるしていたように感じたので。

この時から2人にはすれ違い、思いの違いがあったのではないでしょうか。

秋好にとっては「友達の1人」でも田端にとっては「特別」だったのかもしれない。

この特別はそれが恋愛感情だとか友情だとか、その正体は分かりません。けれど、今まで特別を作ることを避けてきた田端にとってれこれだけ大きな、大切な存在が出来たことは揺るぎない巨大な気持ちです。

 

2人は世界を少しでも変えようという思いでサークルモアイの活動を着々と進めていきます。

ある時、大学院生の脇坂という男性が2人の前に現れます。この人の出現が2人の関係を大きく変える出来事のひとつだったと思います。

脇坂さんはサークルモアイの活動に賛同し、このサークルをもっと大きなものにした方がいいと助言し、そしてその後本当にサークルは少しずつ大きくなっていきます。 

あぁ、2人だけの世界ではなくなってしまったのか。

私はそう思いました。

当たり前のことです。世界を変えたいのなら、サークルモアイをもっと大きくして色んな人にこの活動を知ってもらい、そして共に活動していかなければならないのです。脇坂さんの言ってることは正しいですし、秋好の望む世界を目指すには大事なことです。

けれど、人が増えるにつれそちらにばかり行ってしまう秋好を、脇坂の隣にばかりいる秋好を、田端はどんな思いで見ていたのでしょう。

自分は特別ではなくなった、もう必要とされない。なんだが居心地が悪い。もうここには居場所がない。そう感じたのかもしれません。だからこそ、秋好と田端の間には少しずつ距離ができて、結果的に田端は秋好のもとから、そしてモアイから去ってしまいます。

 

秋好が「モアイは楓の望んだサークルの形にちゃんとなっている?」と田端に問いかけた事があります。その時田端は「秋好がいいと思うならいいんじゃない」という風な言葉を返しました。

この時自分の気持ちをきちんと話せていたら、2人の未来は何か違っていたのかなとも思うのですが、嫌われたくない、傷つけたくない、傷つきたくないそんな思いがある田端には難しい事だったと思います。

 

そして現在、あの時から三年後。

田端と秋好は共にはいません。

田端の世界から秋好はいなくなり、「あの頃の秋好、理想を抱いていた秋好」は死んでしまいました。

田端は復讐を始めます。自分からあのモアイを奪った秋好に、自分に嘘をついて騙した秋好に、自分のそばにいてくれない秋好に。そして形を変えたモアイに。

3年の間にだいぶ歪んでしまった秋好に対する思いは、ほぼ執着だったのではないかとも思います。

 

モアイの不正を暴き、それをSNSへと投稿し炎上させます。結果的にモアイは解散することになるのですが、SNSへと投稿した人間を田端なのではないかと秋好が講堂で問い詰め、言い合いになるシーンは胸が痛くて苦しくなりました。

 

変わってしまった秋好に、元の形のモアイを作ろうという田端に「私は何も変わっていない。変わったのはあなたの方でしょ」という秋好。

それを聞いた田端は「いらなくなったら僕を切り捨てた」「引き止めなかった」「理想を掲げたくせに嘘つき」などと言う。

秋好からしてみれば、勝手に離れていったのは田端の方で自分は切り捨ててなどいないと思うだろうし、引き止めなかったというけれど、ちゃんと大丈夫かと声掛けたというでしょう。  

 

田端は言葉に出して「楓が必要よ。ここにいて。あなたが特別」に近いような事を言って欲しかったのでは無いのかと思いました。

はたから見れば、面倒くさく自分勝手に感じる田端の言動や行動。SNSに無責任に投稿して炎上させたことは許されることではないかもしれません。けれど、この田端の言葉や感情は私にも分かるところがあり胸が苦しくなりました。

勝手に相手に期待して、勝手にこうして欲しいああして欲しいと望んで、勝手に裏切られた気持ちになって……言葉にすると本当に勝手ですね。

でも思ってしまいます。

こんなにも心をゆるして受け入れたのだから、君も同じだけ返してよ。ちゃんと言葉で必要としてよ。そう思ってもおかしくないのではないかと。

「引き止めなかったじゃないか」その言葉に込められた田端の思いよ……

 

3年かけてねじ曲がり大きくなりすぎた思いを、やっとのことで吐露した田端は結局秋好に「気持ち悪い」と真っ向から否定されるわけですが、私は気持ち悪いと言われたことよりも誰でもよかったと認められた事の方がずっとずっとショックでした。

いや、多分田端だって、秋好じゃなくても良かったのかもしれない。秋好が好きだから執着しているというよりか、1度自分を認め、そばに来てくれた人だから執着しているという感じがしました。だからそれが秋好じゃなくても良かったのかもしれない。それでも、秋好の口から誰でも良かったと認められたら悲しくて仕方がない。

誰でもよかった。いくらでも代わりの効く人間。自分の無価値さ。自分の必要とされなさ。自分という存在がただただ利用されただけという感覚。これだけ田端は秋好という人間に執着し、必要としていたのに。

「お前なんか受け入れなきゃよかった」「お前なんかいない方がよかった」

自分の心を守るために必死に言い聞かせるようにその言葉を口にする田端……。

 

その後自分のやった事の重大さを悟った田端が、秋好に謝りたくて見つけ出すために走り、脇坂と会うシーンで脇坂さんが言った言葉が印象的でした。

「あいつは僕を間に合わせに使った」

という田端に

「人って皆、人を間に合わせに使いながら生きてるんじゃないかな。それに間に合わせでもその時は必要とされたんだからいいじゃない」と。

この考え方が出来たら、どれ程心が軽くなるだろう。人は自分に無いもの、持っていないものが輝いて見えます。だから人間関係を上手に築けない田端にとって、人と上手く関わっていくことのできる人間は誰かに特別にされ、特別がいるように見えていたんでしょう。なのに自分は誰の特別にもなれず、やっと特別な関係になれたと思った秋好にはただ間に合わせに使われた。どうして自分だけこんななのだろうと思ったでしょう。

しかし脇坂は皆が間に合わせで生きていると言う。だから田端と秋好の関係、田端のされたことは酷いことではなく当たり前のことなんじゃない?と諭すように。そうか。周りが特別に見えるからなんで自分だけ……と思うのであって、周りも間に合わせの関係で繋がっているのだと思えば、自分の惨めさや苦しさを感じずに済むのかもしれない。

本当の所はどうかは分からない。けど、この脇坂さんの考え方は凄く胸に響きました。みんな田端と一緒。皆間に合わせ。けどそれでもその場は必要とし必要とされている。それでいいって思おうよ。脇坂さんもそうやって生きてきたのかなぁ。

 

人が自分に無いもの、持っていないものが輝いて見える。これは田端が秋好に感じていた事にも言えると思います。

秋好は「世界を今よりも良くしたい。変えたい」といい、実際サークルモアイは変わりました。それが良い方向に変わったのかどうかは分かりませんが、どんな形にしろ秋好は確かに秋好のいる環境や世界を少しでも変えました。

田端はモアイの不正を暴きSNSにあげ炎上させた時に、自分の投稿したそれひとつに沢山の反応が来て炎上してる様を見て自分がモアイを壊した。自分が世界を変えたと思ったのかもしれない。SNSという小さな世界でも、今ではその影響力は絶大で結果的にその投稿がネットニュースにもなっていました。秋好のように自分も周りを変えたと田端は思ったのかなと私は感じました。けれど、その後自分がモアイを壊したと顔写真付きで写真を投稿した時には、人は田端の投稿に見向きもしなかった。

モアイの不正を投稿して炎上したのも、田端が投稿したから皆が反応したのではなく、モアイという存在に皆が反応しただけのこと。田端自身には何かを変える力ないのだと、自分の顔写真投稿をして改めてそう感じたかもしれない。

秋好はなりたい自分になるために、自分の理想を叶えるためにずっとずっとそれを胸に生きているのに、そう出来ない自分に、なりたい自分になれない自分に苦しさと絶望を感じていたかもしれない。

田端を見ながら色んなことを考えてしまいました。

 

1番最後のシーン、もう1度秋好とちゃんと話そうと走り出す田端が無視されても拒否されてもいい、その時ちゃんと傷つけという言葉。人と関わるためには傷つけ、傷つく勇気がなければいけないと改めて教わった気がします。

あの後秋好と田端がどうなったかは分かりませんが、新しい2人なりの関係が築けていればいいなと願わずにはいられません。(秋好からすればいい迷惑かもしれませんが)

 

映画本編全てを通して、私は田端の目線でしかストーリーを見れませんでした。1回目も2回目も身終わったあとこの映画を振り返っても、ずっとずっと私は田端楓の立場でしかこの話を考えられません。田端が主役だからというのもあるかもしれないですが、一番の理由はやはり田端が自分?と思うほどに共感してしまったからです。

人を傷つけ傷つくのがこわいから、人と関わることを避けて生きる。けれど自分とは違う人間を見てはそうなれないから嫉妬し憧れ、意識高い系などと揶揄する。あぁ、わかる、わかるぞと……。

田端の思想とはある意味真逆の秋好がそばに来た時に突っぱねたものの感化されていったのも、本当は秋好のように生きれたらいいなと思う部分があったからだと思うし、秋好のそばにいたら自分もそうなれる気がしたからなんじゃないかなと思います。

けど、自分の憧れるようなこうなりたいと思う人が近い距離いると必ずと言っていいほど嫉妬心や虚しさ、苦しさが生まれてくるんです。

そしてそこに自意識が生まれることによって、自分はこんなに秋好を必要としてるのに、秋好を受けいれたのに、秋好だけを見てるのに、なんで秋好はそうじゃないのかと思う心が生まれたりします。

対等を望んでしまうとそういう心が生まれるのかなと。自分がこれだけ思ってるのだから、相手にもこれだけ思って欲しいと思ってしまった時に、相手が自分の望んだだけ返してくれなかった時、裏切られたという感情が生まれるのです。

私は過去に似た感情を抱いたことがありました。

はたから見たら本当に面倒くさいし、自分自身も面倒くさい事はよく理解しています。けれど、頭で理解していても心は反対の反応をとる時は意外と多いものです。

正反対の人間が出逢った時、それは化学反応のように上手くいくときもあれば、分かり合うこと出来ないまま最悪の状況に陥ることもあると教えられた気がしました。

どちらかがもう一歩相手に踏み込んでいれば……相手を分かろうとしていれば……

でも秋好にはそこまでする義務もないし、義理もない。変わるべき、相手を分かるべきだったのは田端なんですよね。でもそれが上手く出来なかった。そういうことです。

 

田端と秋好が出逢わなければ……と思いもしました。けど、出逢わなければあの楽しかった日々を過ごすことも出来なかった。2人ですごしたあの日々だけは嘘ではなく、誰にも否定出来ない宝物になって欲しいと、そう思います。

 

田端楓がどうか生きやすい世界で生きていけますように。

 

 

 

ここからは各登場人物について感想を書かせていただきます⤵︎ ⤵︎

 

 

田端楓 (演:吉沢亮)

人と近づきすぎないように距離感を保って生きる人。

上記にも記載してきましたが、自分か?と思うほどに共感してしまった登場人物でした。

この映画を見ようと思ったのも、演じている吉沢亮さんが見たくてというのが理由でした。

予告を見た段階で「この表情をする吉沢様を見れるの?私が見たかった吉沢様!」と意気込んでいたのですが、本編見て「あ〜〜〜!!!!こういう吉沢様が見たかった!」と心から感謝致しました。

吉沢様の魅力のひとつとも言える「目」。

今回の作品での目の演技、目の表現はかなり印象的で、復讐を心に決めた後の秋好を見る時の目がかなり良かったです。これは吉沢様にしか表現出来ない……とまで思いました。また人を見下す、少し小馬鹿にしている時の表情が秀逸で、吉沢様の田端としての表情と目を見るためにもう一度映画館に行きたいと思うほどです。

吉沢様本人は度々インタビューで田端の事を「嫌われそうな役」と言っていましたし、本人も複雑な思いの中演じたことでしょうけれど、田端楓として生きてくれて本当にありがとうございました。

この吉沢様に出逢えて良かった……スクリーンで見れてよかった……ありがとうありがとう。

自分勝手で面倒くさいけど、私は田端楓が1番好きです。

 

 

秋好寿乃(演:杉咲花)

理想を強く掲げ、周囲から浮こうが信念を貫いて生きる人。

私は純粋に秋好が好きです。色んな人の感想で、秋好は痛すぎるし居たら関わりたくないと言われているのを見ましたが、私は映画本編を通して秋好に対して負の感情はあまり抱きませんでしたし、嫌いになる要素がありませんでした。むしろ、素敵だし憧れる部分しかありませんでした。でも多分それは、私と秋好が友達じゃないから。私も田端のように秋好との距離が近かったらきっと彼女の内面に嫉妬していたかもしれません。それ程に彼女は素敵に見えました。高すぎる理想を持ち、それをきちんと口に出せる事の強さや真っ直ぐさは、見る人によっては痛いヤツと思うのかもしれませんが、私は本当に凄く憧れの念を抱きました。こんなにも純粋に自分の思いを恥ずかしいと思わずに口に出せたら、きっと私も自分を好きになれるかもしれないと思いもしました。

多分秋好は田端のようなタイプの人間にいくら理解しようと歩み寄っても、秋好が感じた事の無い思いを田端は抱えているから一生理解することが出来ないと思います。本編の最後、あそこから秋好がどう田端と接していくのかとても気になります。

秋好を演じる杉咲花さんの笑顔があまりにも無垢で可愛らしく、だからこそ秋好を好きになれたのかもしれないです。

 

 

前川董介 (演:岡山天音)

楓の友達。優しい人。

董介は優しいなという印象が強いです。田端がモアイに復讐しようと思ってると言った時も手伝ってくれたし、何よりも最初は何も知らないモアイの事を斜めから見て意識高い系〜と揶揄していたのに、ちゃんとモアイを知った後それをバカにしていた俺の方が痛いヤツなんじゃないかと思ったと言っていたのが凄く良かった。 人をちゃんと知り理解して、理解せずにバカにしてた自分を省みることが出来る優しさを持っているなと。

董介は田端を諭すように話すことはあっても、1度も田端を否定することは無かったし、本編が終わった後、どうかもう1度田端と董介の関係が戻っていて欲しいなと思いました。

 

 

ポンちゃん(演:松本穂香)

董介のゼミの後輩。モアイの幽霊部員。

ポンちゃんは1番現実的で強く、自分を理解しているなと思いました。どんな自分も自分。私は100種類くらいある。この言葉にガツンと頭をぶん殴られた気分でした。いや、本当にそうですよね。色んな私が確かに存在していて、どれが本当とか嘘とかないんですよ。職場の私も家族の前の私も推しを見てる時の私も全然印象が違うと思うけど、全部本当の私だし、私って沢山種類がある。それを芯がないとか、一貫したないと言っちゃえばそうかもしれないし、受け入れられない人もいるかもしれないけど、この生き方を受け入れられたら生きるのが少し楽しくなるかもしれないと思いました。

 

テン(演:清水尋也)

モアイの幹部。

本編見終わってもテンさんのフルネームを知ることはなくて、天野巧と言うんですね。モアイに属してる人の中でも、テンさんのフルネーム知らない人多いんじゃないかなあ。そういう感じの人です。

純粋で良い人なんでしょうけど、裏で悪いことしてるのでは……という印象を抱いてしまう雰囲気があります。上辺だけでは人は分からないの代表みたいな人。BBQのシーンが1番テンさんが描かれていると思うのですが、初対面の田端の事をすぐ下の名前で呼び連絡先も交換してしまう所を見て、え!?凄いな!?と思ったんですが、ポンちゃんが「コミュニケーションを取りすぎるのも、コミュ障のひとつらしいですけどね」っていうのを聞いて、なんだかしっくり来ちゃいました。

いつも誰かといる印象の強いテンさんだけど、1人の時はどんな感じなのかすごく気になりました。

 

 

西山瑞希(演:森七菜)

田端と秋好がモアイを通じて知り合う不登校の少女。

私は瑞希は田端に近いキャラクターだなと思って見ていました。モアイは世界を変えるという田端に、「私にも勉強教えても世界なんて変わらない」という瑞希は秋好と出逢う前の田端みたいだなと思いました。変わらなきゃいけないのはわかりつつも、上手く出来ない。けど、瑞希はちゃんと1歩踏み出してなりたい自分、変わりたいという思いを実現するために動き出せた人として、田端と対比するように描かれていたように思えます。田端は瑞希ともっと仲良くなれたんじゃないかなとも思いました。

森七菜ちゃん可愛かったな……

 

 

脇坂(演:柄本佑)

大学院生。モアイの活動に賛同している。

脇坂さんは最後まで不思議な雰囲気を纏った人だったなぁ。でも言うことひとつひとつが核心に刺さる言葉達で、視野の広いひとなのかなと思いました。捉えどころのないというか、年齢が田端達より上だからというよりも性格がそうさせているのか……

柄本佑さんの雰囲気も相まって、脇坂のいう言葉にはなんだかとても説得力を感じましたし、それが押し付けがましくなく優しく受け入れることが出来ました。

 

川原理沙(演:茅島みずき)

田端のバイト先の後輩。

川原さんも田端と同じように人と距離感を保ちながら生きる人間で、だからこそ田端との距離感は案外心地よかったのではないかなと思いました。

最初はクールな印象が強かった川原さんも、モアイに加入し秋好と出逢ってからは笑顔が増えたように思えたし、何よりも最後の方で解散したモアイを引き継いで新しいモアイを作っているところには驚きました。

あと演じている茅島みずきさんがまだ15歳だときいてびっくり……大人っぽい雰囲気からは想像がつきませんでした……これからの活躍が楽しみです!

 

 

 

 

このブログを書く前にきちんと原作を読んでからにしようと思ったのですが、敢えて原作未読のまま書くことにしました。

やはり映画と原作は別物だと思うからです。

原作の作者が書いた作品と映画で他の人の解釈や手が加わった映画では同じにはなりません。

それが悪いと言っているわけではなく、私は映画が表現した、映画で描かれた「青くて痛くて脆い」の感想を書きたかったのです。

原作の住野よる先生が書いた「青くて痛くて脆い」もこれから読むます。映画で感じたのとは違うものを感じるかもしれませんし、とても楽しみです。

 

映画を見終わった後も続くこの不思議な感覚は何なのだろうと、その正体をずっと分からずに映画鑑賞後過ごしていました。

帰ってからパンフレットをじっくり読んで、そこに書かれていた住野よる先生の言葉を見て納得しましたし、しっくりきました。

青くて痛くて脆いは「読む自傷行為」だったかもしれないから、映画の青くて痛くて脆いは「見る自傷行為」になればいいと。

あ、そっか。私傷ついてたのか。

これだけ田端楓に共感していたのだから、私も同じように傷ついてたのかもしれない。

色々な人の感想で、本当に田端楓は痛くて気持ち悪かったと言われているのを見て心が痛かったのも傷ついてたのかもしれない。

私は田端楓を気持ち悪いと思えなかったし、痛いヤツともあまり思えなかった。でも世間からはそう見えているわけで。それを受け入れていくことも大事かもしれないと改めて思わせてくれた映画です。

 

上手く生きることが出来ない田端楓。

でも上手く生きれてる人間なんてどこにも居ないのかもしれない。自分だけ特別じゃないと思うのも、それは自分の視点でしか見れていないから。皆間に合わせかもしれない。その真意は分からない。

けど、1つだけわかるのは人と関わるという事は相手を傷つけるかもしれないし自分も傷つくかもしれないという事。それを受け入れて、その勇気を持ったものだけが人と関わっていくことが出来るのかもしれない。それを受け入れることはとても難しい事。それでも最後のシーン、田端楓の見据える先にどうが希望がありますように。

 

 

一生心に残り続けるであろう、大切に作品に出逢えた事に感謝です。

 

 

『青くて痛くて脆い』予告【8月28日(金)公開】 - YouTube

 

主題歌であるBLUE ENCOUNTさんの「ユメミグサ」

本編の雰囲気にとてもあっていて素晴らしかったです。歌詞も田端楓を思わせる歌詞で何度も何度も聴いてしまいます。

 

BLUE ENCOUNT 『ユメミグサ』Music Video(Movie Ver.)【映画『青くて痛くて脆い』主題歌】 - YouTube

 

十二人の死にたい子どもたち

 

死にたいということがどういう事なのか、知りたくて堪らないのです。

 

主催者である1番サトシは死に取り憑かれているといいながら、こう言った。それはきっと、彼だけではなくそれを知りたいと思った人間は多くいることだろうと思った。

 

 

十二人の死にたい子どもたち

 

 

 

それぞれの理由で安楽死を望み、廃病院の密室に集まった12人の少年少女は、そこで死体を見つける。死体が何者で自殺なのか他殺なのか、集まった12人の中に殺人犯がいるのか。やがて、12人の死にたい理由が明らかになっていく。

 

十二人の死にたい子どもたち の映画情報 - Yahoo!映画より抜粋

 

※ここから先ネタバレしています。

 

 

まず、この話を見終わって感じたのは、この話を見た死にたい若者がほんの少しでも救わること。そして大人達が少しでも考えを改めてくれる事だった。

 

死にたいという思いから、「集団安楽死」という最期を迎えることを選んで集った未成年12人。彼らはそれぞれに自分の意思で死ぬことを選択して廃病院に集まった。それを選択するまでには色々な葛藤と苦悩が存在していて、死しか選べなかったもの、死を救いとするもの、死を復讐に使おうとするもの、愛から死を選んだもの。本当に人それぞれ。

人それぞれの中にある死への思いやそう至るまでの結論は、自分で決めたもの。すなわち別の言い方をすると自分の世界、自分の価値観だけで凝り固まり出た結論。

集団安楽死を実行にうつす前に起きたまさかの13人目の登場により、事態は13人目を誰が連れてきたのか、はたまた誰が殺したのかと話し合い、疑い合い、謎解きが始まる。その過程において、参加者の子どもたち12人それぞれの思いや過程を吐露し、意見交換や議論に発展していくのだけれど、今まで誰にも話せなかった思いを同じ気持ちを抱いている自分以外の11人に話すことによって気持ちが軽くなったり、意見が変わったり、新しい選択肢に気付かされる人もいて、それはある種の救いだったのだと思う。話したからと言って気持ちが変わらない人間がいるのも、それもまた生きているなら有り得ることで。けれど、誰かに気持ちを吐露し、他の誰かの意見を聞くことや話し合うことはかなり大切なことなのではないかと感じた。

 

もし今自ら死を選択しようとしている誰かがいるとしたら、この映画に出会って欲しいと思った。私自身死のうと思った事は何度かあった。いじめが辛かったから、自分の生きてる価値を見い出せなかったから、周りの人間よりも孤独を感じてしまったから。理由は様々。けどもし私もこの世界の中でこの集いを知っていたらテストをして参加していたかもしれない。いや、私はこの映画を見ながら参加者の1人として見ていたような気がするんだ。

この映画を見て、結果死を選んだとしても私は命を軽んじている人間だと非難することは出来ない。自分の命を自分自身の選択として終わらせたのだから私がとやかく言うことではないと思う。

この映画を見て、死を留まって欲しいとか救われて欲しいと思っているわけではなくて、この作品を通して死というもの、生きるということにもう一度向き合い、考えるきっかけになって欲しいと思った。

 

7番のアンリちゃんと8番のタカヒロくんと10番のセイゴくん、特にこの3人は親に人生を左右されてしまった子どもたちのように思える。子どもは親を選べない。何かの作品で、子どもは親に愛されなくても愛して欲しいと思い続けるもので、どんなに最低な親でも固執してしまうものだと言っていた。

私は親になったことがないからこんなこと言う権利はないけれど、どうか、どうか自分の子を自分の所有物のように、自分勝手に扱う親が減ることを願うばかりだ。親の勝手によって死を選ぶしかなかった子どもがいる現状が悲しくて仕方なかった。

 

5番のシンジロウくん。

彼の存在はこの集いにおいて最高のサプライズだったんじゃないかと思う。彼は長年の闘病生活により考えることだけが自分のあり方だと思って生きてきたという。だからこそこの集いにおいて誰よりも議論の中心にたち、推理し、話を進めていく。彼がいてくれなかったらこの映画の結末は変わっていたかもしれないと思うほどに。彼にとっての死は最後の自分の決断だったのだ。もうしばらくしたら自分の意志とは関係なく動かなくなり終わってしまう命に対し、自分の死を自分の意思で決めるために。この集いの中で1番死への距離が近かったのは彼だと思う。けれど、彼が出した答えは生きるという事だった。あと数ヶ月しか生きれないかもしれない彼が、生への希望を捨てなかった答えに涙が溢れた。彼が集いに参加した皆に生きていて欲しいと思ったと同時に、それは自分にも言えることだと考えられた強さに胸が締め付けられるようだった。

けして彼が正解だとかそういう事が言いたいわけじゃないけれど、彼の存在と彼の出した答えはこの映画を見た誰かの心の救いになるのではないかと思った。

 

生きていると必ず死が隣合わせであり、10代の頃は特に何故だか死というものに強く惹かれる時がある。今日の映画館の客層を見ても思った。若手キャストが出ているからというのもあるだろうけど、自殺というテーマだからこそこれだけ多くの若者が見に来ているのではないかなと。

自分の意思で自分の死を決めることが出来る。それは理由がどうであろうと。え?そんな事で?って思うようなことでも、人によっては死にたい程辛いことなのかもしれない。簡単に人に話せるようなことではないと思うけど、その思いや感情は自分の世界だけで完結してしまっていいのだろうか。可能性と希望の問題として1度誰かに話してみるというのも一つの手なんじゃないかなと私はこの作品に触れて思った。自分では想像もつかなかった事を言ってくれる人が現れるかもしれないし、人に話してみても変わらないかもしれないし、それは話してみなければわからないことだけど。

命は誰かのために存在しているわけではないから、きちんと自分自身で考えなければならない。死にたいということはどういう事なのか。生きるということがどういう事なのか。

命を軽んじてはいけません。死んではいけません。そう言われたとして、どうしてそうなのか自分の中で咀嚼して考えて欲しい。死は決して逃げではない。けれど人はいずれいつか死ぬ。ならばもう1度、あと1度でもいい。もう1度だけでも自分の心と生きることに向き合い葛藤し、そして誰かと共有するという希望を捨てないで欲しいと思った。

 

 

 

 

いやはや、纏まりのない文で申し訳ないのですが私はこの作品に救いと希望を見出してしまった。みんながみんな救われる話ではないけど、人の意見と触れ合い、ぶつかっていく中で気持ちや考えって変わるんだなって改めて思えた。決して自分ひとりでは生きれないということも。 

あれだけの理由で死のうとしたの?あれだけの事で死ぬことをやめたの?っていう感想を目にしたけど、死というワードが蔓延しているこの世界で死ぬことを選ぶことって軽いって人が多い。その中にはそれがどういう事なのか向き合いきれずに決断した人もいたり、反対に物凄い向き合って決断してそれを選んだ人もいるわけで。12人もいたらそりゃ色んな子がいるわけで。生きるとは葛藤です。辛いね。でも向き合って戦って自分のなかで沢山沢山考えて、人の意見とも向き合った先に何か光が見えるかもしれない。そう思った。

 

 

 

ここからは本当にぺろろんってした感想になっちゃうけど、この映画を見に行ったのは内容もそうだけどやっぱりキャストの魅力が大きかったのもあって、みんな素晴らしかった。原作読んだけど、ちゃんと原作のキャラの良さを出してくれてました。それでもやっぱり5番シンジロウを演じた新田真剣佑くんには拍手を送りたいです。説得力と心に刺さる演技をありがとうございました。彼の作品はかなり拝見させて頂いていますが、今までにない役柄でまた新たな彼の魅力に出会えたな〜と思った!

杉咲花ちゃんの7番のアンリも凄く凄く良かった。彼女だけは他の誰とも違う結末を迎えたように思えて、核となる人物は彼女だったような。

あとこれはもうオタク的視点からの感想になってしまうけど、北村匠海くんの演技やっぱり自然で馴染んでてとても好きだな〜!汗ふきふきしてた所何だか可愛くてにやにやしてしまったよ……(キモイ)

 

この作品に触れて、出会えて、良かったと心から思えました。劇場で見れて良かった。また見に行きたいと思います!!

 

1人でも多くの人とこの映画が出会えますように。

そして原作読むこともオススメします。


 

孤狼の血-血が滾る


5月12日公開の映画「孤狼の血」を公開日に見に行ってきた。本当にサラッとしてしまうけど自分が思ったことを感想的に書いておこうと思う。

 

 

 

孤狼の血 

 

映画『孤狼の血』予告編 - YouTube

 

 

『凶悪』などの白石和彌監督がメガホンを取り、柚月裕子の小説を映画化。暴力団対策法施行以前の広島県を舞台に、すさまじい抗争を起こしている暴力団と彼らを追う刑事たちのバトルを活写する。役所広司が主演を務め、松坂桃李真木よう子滝藤賢一田口トモロヲ石橋蓮司江口洋介らが共演。昭和の男たちが躍動する。

 

昭和63年、広島の呉原では暴力団組織が街を牛耳り、新勢力である広島の巨大組織五十子会系「加古村組」と地元の「尾谷組」がにらみ合っていた。ある日、加古村組の関連企業の社員が行方不明になる。ベテラン刑事の刑事二課主任・大上章吾(役所広司)巡査部長は、そこに殺人事件の匂いをかぎ取り、新米の日岡秀一(松坂桃李)巡査と共に捜査に乗り出す。   (シネマトゥデイより抜粋)
 

 

 

 

極道映画というと一見女性は取っ付きづらい印象を覚えるかもしれないが、私はむしろ極道映画だったり不良映画だったり乱闘シーンが多い映画だったりと男臭く生々しい描写の多い映画が好きだったりする。それは多分父親の影響だろうと思う。父は昔から極道映画というものが好きだった。父は既に他界していて今はもういないが、もし生きていたとしたら必ずこの孤狼の血を見ていただろうと思う。

東映の極道映画というと仁義なき戦いが有名らしいが、父が見ていたという記憶はあるが私はその音声だけを耳にしていただけで、きちんと見たことは無い。なんてもったいないことをしていたんだろうと思う。孤狼の血を見終わった後の血が滾るような感覚のまま必ず仁義なき戦いを見ようと心に決めた。

 

 

この映画をみて私が受けた印象は、筋の通ったストーリー性も勿論圧巻なのだが、何よりも役者さんの演技がピカイチに光る作品だったのではないだろうかということ。なので私が今から書く感想は内容というよりも俳優さんに特出した書き方になっているかもしれない。そして盛大にネタバレをしているので悪しからず。

 

 

豚の鳴き声が鳴きひしめく中、拷問のシーンから始まるこの映画。始まりのインパクトは充分過ぎる程じゃないだろうか。小指を切るというのはよく極道映画であるシチュエーションのような気がして一気に作品に入れた気がする。

 

1番最初に目に入ったのはヤクザに扮する竹野内豊さんだ。私の中の竹野内さんは堅そうな格好でクール且つ正義を全うする男というイメージだ。だから今回の竹野内さんの声を荒らげながら人を脅すという姿はとても新鮮だった。しかもいい感じに大物に見えないという所もまた良い。笑

舎弟を従えて拷問をする竹野内さんはこのシーンだけでもインパクトがかなり強い。

 

資料写真とナレーションにより過去と現在の加古村組と尾谷組の関係性が説明される。一緒に見に行った母曰くこのナレーションが極道映画らしさを出しているらしい。これは白石監督の別作品「日本で一番悪い奴ら」でも似たような手法が見られた。

 

 

そしてここから始まる役所広司さんの大上の魅せ場である。私がこの映画を見ようと思ったきっかけは役所広司さんが演じる大上が見たかったというのが大きい。映画「渇き。」で受けた役所広司さんの悪っぽい役の印象はとても大きく、荒れる役所広司というものの素晴らしさを知った。今回の孤狼の血の特報が出た時も役所広司さん演じる大上の見た目や喋り方含めた役柄にグッと惹かれたのだ。

本編で実際に大上を見たらどうだろう。期待を遥か上回る、私の求めていた役所広司さんの姿がそこにあった。

破天荒なやり方での捜査。吼える。怒鳴る。そんな普通ではありえないようなやり方でそこに存在する大上はただ下品に映るのではなく、役所広司さんならではの演技力により巧妙に美しく映っているのだ。独特な雰囲気を纏わせた大上はヤクザよりもヤクザらしく、けれど上品さは損なわれていない素晴らしさがあった。役所広司さんの作品は全部ではないが他にも何作か拝見している。いつも思うのは纏う空気とオーラ、そういう全てのものが役によって全く違う。今回の大上も役の雰囲気的には「渇き。」の時の藤島と似ている部分もある。けれど全くの別人に映るのは役所広司さんの力なのだろう。

 

私は最初大上という刑事のやり方はあまりにも強引且つ破天荒で、とあるシーンで放った「警察だから何してもええんじゃ」というセリフを受けたこともあり刑事としてこれはどうなんだろうと思いつつ見ていた。けれどそれは結局大上の表面しか見ていなかったということを後半で知ることになる。極道組織と癒着し肩入れしていると思われていた大上だが、大上の芯というものは堅気を中心とした堅気のための正義だったのだと思う。表面では悪と捉えられている大上の出来事も蓋を開けて見ればそこには誰かを思う優しさだったり、暖かさがそこにきちんと存在していたのだ。それを知るのは大上が消え、亡くなったことを知った後になるのが悔やまれる。

口に出すことはなくとも、きちんと己の芯があり大上なりの正義を全うする姿は後々に思い出して目頭が熱くなるほどだ。

己の保身ばかりを考える他の警察関係者とは違い、

自分が犠牲になろうとも守りたいものをあらゆる手段で守りに抜く姿はまさにそのものだった。

あぁ、なんてかっこいい。かっこよすぎるじゃないか。大上という男はどこまでかっこいいのだろう。

 

人は表面しか見ようとしない。そして己の保身が1番である。けれど大上という男は芯が熱く己の正義を全うしていた素晴らしい人間だったのではないだろうか。やり方は正しいとは言えない。けれど内なる暖かさと優しさは誰よりも強かったように思える。

孤狼の血。これは大上のことなのだろう。大上=狼。1匹の孤独な狼の中に流れる赤く熱い血。それは流れ出ることもあり、内で熱く滾ることもある。そんな大上を演じる役所広司さんを劇場の大きなスクリーンで見ることが出来て私はとても幸せだった。

 

 

そしてその大上の孤狼の血は、大上の近くにいた日岡に受け継がれたのではないだろうか。

 

 

松坂桃李くん演じる日岡

大上とは真逆の正義を貫く熱血漢のような男。彼は県警本部から大上のことを探りやってきたスパイのような存在だ。最初こそ大上の手段を選ばないやり方に異議を唱え反発していたものの、大上と共に行動しているうちに自分の信じる正義が正しいの?もっと違う何かがあるのではないか?と思い始めるようになる。そして彼も私と同様大上の表面しか見れてないことに気づくのだ。大上の内なる心を知った時には既にもう大上はいなかった。

私は特に後半の大上が亡くなったことを知り、大上の愛用していたジッポを見つけた辺りからの日岡が好きだ。日岡の中で何かのスイッチが入ったかのような、何かが変化したかのようなあのシーンの日岡には震えた。

私は日岡を通して松坂桃李くんの演技力に度肝を抜かれた。今まで彼の色々な役を見てきたけれど、一作のうちにここまでいろんな顔が見れる作品が他にあっただろうか。前半と後半、そして最後の日岡はまるで違ったように見える。特に目だ。

前半の大上に不信感を覚える日岡と、後半の大上を理解し始めた日岡と、最後の大上を受け継いだかのような日岡は皆同じ俳優が演じているのに、こんなにも違って見えるのかととても感動した。

それは決して違う演じ方をしているという訳ではなく、日岡の変化や成長を素晴らしく演じてくれているのだ。松坂桃李くんという俳優の凄さとこれからがとても楽しみだと思って仕方ない。

一見綺麗で線の細いように映る松坂桃李くんだけれど、この骨太な男臭い映画にがっしりとハマっていて見ていてどこか心地良ささえ覚える表現力と馴染み具合だった。きっとこの日岡という役は彼にしか演じることは出来なかっただろうなと思わせる程に。

松坂桃李くんが出てる映画で1番最近見た作品は、彼が主演のR18+の「娼年」だ。当たり前かもしれないが、今作の日岡娼年のリョウはまるで別人だ。

ただただ純粋に松坂桃李という俳優の演技が好きだな、彼の演技をもっと見たいと思った。

 

 

 

私は大上と日岡の真反対のバディ感がたまらなく好きで、大上の血が日岡に受け継がれたような感覚がとてもゾクゾクとした。日岡の報告書に大上が書き加えた文章。あれが1番響いた大上の言葉だったんじゃないかなぁ。そして最後のタバコを咥える日岡は色っぽくてたまらなかった…

 

 

大上と日岡以外にも印象深い役柄が多く、簡素的に感想を述べていきたいと思う。

 

 

 

・一之瀬 守孝 (江口洋介)

尾谷組 若頭

知能指数2みたいなことしか言えなくなるほどに顔が良い…なんだこの色気は…。登場シーンはそう多くはないけれど、その一瞬一瞬の爪痕の残し方が素晴らしすぎる。未だかつてこんな色気ダダ漏れの色男の若頭がいたのだろうか…。特に最後の方のトイレで敵対してる組の頭の首を取りに行くシーン。大好きが詰まりすぎている……。まず銃じゃなくて刀なんだね?刀で殺すんだね?っていう所から始まり、返り血を浴びる姿。切り落とした首を投げ捨てる姿。何もかもが色っぽくてたまらなくカッコ良く、様になっていた。一之瀬のこのシーンを見るためにもう一度行きたいくらい…。とにかくかっこいい。

 

 

 

・高木里佳子(真木よう子)

クラブ梨子のママ

松坂桃李くん演じる日岡が目の演技が光っているとしたら、真木よう子さんの梨子ママは声の演技が好きだった。声に強さや悲しさ、憎しみや怒りが全て表れていてその演じ分けも素晴らしいものだった。強い女素晴らしいな。大上のスクラップブックを日岡に渡し、日岡と外を歩くシーン。過去の事件の犯人が大上なのではないかと疑う日岡にそれは違うという梨子ママ。そこからの真実の告白のシーンは一気に声のトーンが低く強くなり、とても圧倒された。凄い…

 

 

 

・永川恭二 (中村倫也)

尾谷組構成員の1人

出演シーンはそう多くないのにも関わらず物凄い印象を残していく。気性が荒く行動も粗野で荒々しく初登場のシーンから物凄い爪痕を残す。噛み付く所とか犬みたいだ……そして若頭の一之瀬に仕えていて、タバコに火をつけてあげるシーンがあるんだけどめちゃめちゃにここのシーン好きでして…ただ火をつけてあげてるだけなんだが、色気が…

その後鉄砲玉やらされて、自首するために公衆電話から警察に電話。その電話を取ったのが日岡で外を見た日岡と電話ボックスの永川の目が合うシーン。好きだな〜。

 

 

 

・吉田滋 (音尾琢真)

加古村組構成員の1人

音尾琢真さんの演じる怖いんだけど、どこか面白くてダサい役って凄く好きで、今回の吉田もイキっててTheチンピラって感じなのにどこか面白くダサくて笑ってしまった。局部に真珠は面白い…笑

しかもそれを大の大人3人がかりで(大上、日岡、梨子ママ)押さえつけて取っちゃうなんてなんだかクスっとしてしまった。音尾さんのこういう役柄の演技は凄く大好きです。

 

 

・善田大輝 (岩永ジョーイ)

養豚場の息子

救いようのない奴…1番嫌いだったかも(笑)

岩永ジョーイくんはHiGH&LOWとデメキンで拝見した事があるけれどその2つとも全く違う役柄で、初登場シーンであれ?もしかして薬やってる?と思わせる演技ですごいなぁと思った。いつものアクションは見れなかったけれど、こいつ嫌だなと思わせる演技力に凄く魅せられた。

 

 

 

 

 

他にも沢山濃い登場人物や圧倒的存在感で魅せてくる人達が沢山いた。こんなにも素晴らしい作品になったのは演者さん一人一人の素晴らしさあったからこそだと思う。

 

 

大上はもしかしたら多くの人に勘違いされたまま、芯の部分をわかられること無く死んでしまったかもしれない。けれど、日岡や梨子ママのようにきちんと大上を理解した人間もいる。日岡は大上の血を継ぎ大上のように将来孤狼のようになるのかもしれない。

 

大上は死んだ。

けれど大上は日岡の中で生きている。

これから先も生き続けていく。

極道組織というものは根絶しないであろう。

孤狼の血を受け継いだ日岡が今後どう極道組織と関わっていくのか、それが楽しみで仕方ない。

 

 

 

こんなにも熱くなり血が滾るような感覚を覚えた映画は久しぶり。素晴らしい映画に出会えたことに感謝し、また劇場に見に行きたいと思う。こういう映画がまた増えればいいのになぁ。


 


Twitterにあげた感想メモを添付。

 

髑髏城で待ち合わせ。

 

以前なむという名前でアメブロに書いていた記事をこちらに移行して載せさせて頂きます。

 

 

 

髑髏城の七人season花

 

 


2017年、4月3日、9日、27日に
劇場であるIHIステージアラウンド東京に観劇しに行き、5月15日に新宿バルト9にてライヴビューイングを見ました。


見に行こうと思ったきっかけは、元々小栗旬さんの舞台に何度か行ったことがあったので、今回も行こう!って思い小栗旬さんのモバイルFC枠で応募したら有難いことに3日間も行けることになって本当に嬉しかったです。

 


髑髏城の七人season花 あらすじ

↓↓

時は天正十八年(1590)。織田信長が死に、豊臣秀吉が天下を治めていたこの頃、都から遠く離れた関東の村々は<天魔王(成河)>率いる関東髑髏党に荒らされていた。
この日も、とある村が髑髏党の鉄機兵たちに襲われていたところに傷だらけの<沙霧(清野菜名)>が飛び込んでくる。彼女は、天魔王らの居城・髑髏城の抜け道が記された絵図面を持っていたために追われていたのだ。と、そこに派手な身なりの傾奇者たち・関八州荒武者隊の面々が登場する。先頭に立つのは、頭目の<兵庫(青木崇高)>だ。しかし仲間の<三五(河野まさと)>の裏切りにより、みるみるうちに窮地に陥る荒武者隊。そこへフラリと現れた着流し姿の男が、手にした大きな鉄煙管で鉄機兵を叩きのめす。男は自らを<捨之介(小栗旬)>と名乗り、沙霧に傷の手当てをさせるため、兵庫と共に関東一の色里“無界の里”へと向かう。
色里“無界”は宿場も兼ねているため人の出入りも賑やかで、その中には何か事情を隠していそうな怪しげな牢人<狸穴二郎衛門(近藤芳正)>らの姿もある。この色里一と評判の<極楽太夫(りょう)>は、「沙霧をかくまってほしい」という兵庫らの頼みを快く引き受けてくれた。
その夜。店の裏で再び沙霧は髑髏党に襲われそうになるが、捨之介と“無界の里”の主<蘭兵衛(山本耕史)>がそれを阻む。そこに突然現れる、天魔王。実は捨之介と蘭兵衛と天魔王の三人は、ある時期、共に時間を過ごした間柄だったのだ。南蛮製の鎧と仮面を装着した天魔王には、捨之介の刀も蘭兵衛の短筒も歯が立たない。しかしこの場は、狸穴二郎衛門が間に割って入ったことで難を逃れられた。
天魔王、そして髑髏党との戦いを覚悟した捨之介は山奥にこもる刀鍛冶<贋鉄斎(古田新太)>を訪ねて、無敵の鎧を叩き斬る刀、必殺の“斬鎧剣”を打ってほしいと頼み込む。
しかしその頃、蘭兵衛は単身で髑髏城へ行こうとしていた。それに気づき、こっそりと後を追う沙霧。
捨之介、蘭兵衛、天魔王が抱える深い縁(えにし)とは……。天魔王の謀略を、捨之介たちは阻止することができるのか……。
(公式サイト様より抜粋)

 

 

本当に、劇場で生で見れて良かった。

舞台が360°回転するこの劇場でこそ見るべき舞台だと思いました。
回転する度に軽快に変わるセットや大きなスクリーンに映し出される映像など全てにおいて舞台を楽しませてくれました。
見てる最中はあまり舞台が回ってるという感覚はなく、あ、回ってたんだ。と思う程度でした。
1番回転がわかり易かったのはカーテンコール前のエンドロールに出演者が色々なセットに並び回るところです。
あれは本当に素敵でした!

 

 

 

 

※以下、若干のネタバレ有


今回の舞台、様々な登場人物がいるのですが、
その中でも私は成河さんが演じていた
天魔王がとても好きです。

 

なにあの可愛い人、、、、

 

パンフレットと実際の舞台でのビジュアルは少し違っていて舞台では髭が生えていないのですが、
それがなんというかより可愛く見える、、
どこから出してるの?ってくらいの高笑いや強弱の強い喋り方。どれをとっても印象的なキャラクター。

しかもシーンによって髪型や服装が
ちょっとずつ違うのですが、それがどれもまた素敵で…。

下の方で一つに結んでいたり、ポニーテール風だったりなにもしてない髪型だったり、、個人的にはポニーテール風の髪型がお気に入り。

白くて長い髪と色白の顔、そして大きな火傷跡が
なんともいえない綺麗さとセクシーさ。

狂っていて、無慈悲で、怖い。

 

そんな天魔王だけど、
私には見れば見るほど寂しい人なのだなと思った。
捨之助や蘭兵衛との縁を捨てきれない甘さや野心を突き通し続ける姿を見ていると、誰か彼を心から愛してくれる人がいたらまた違ったのかなぁなんて思ったり。

 

ただ個人的に天魔王様が恋愛してるとこ
みたいだけなんですけどね(笑)
蘭兵衛のことを兄者とよんで慕っていたのは
嘘ではないような気がする。


無界の里に蘭丸に戻ってしまった蘭兵衛と天魔王がくるシーンで、人を斬った後手や腕についた血を
舐めとる天魔王様があまりにも好きすぎてガン見してました。
あれやばくないですか???

私だけがこんなに興奮してるの?
かなり好き。
あと血は舐めるくせにおにぎりは吐き出すの。
あのシーン本当にあと500000万回くらい見たい。


カーテンコールで色んな演者さんが出てきて笑いながら手を振ったりお辞儀したりする中、天魔王だけは笑うことなく客席を睨みつけるようにお辞儀していてなんてすごい人なんだって思いました。
最後の最後まで役を抜くことなくステージに
立ち続ける成河さんがあまりにも凄すぎて。
それで完全におちました。
別のカテコレポとか見るとたまーに笑ってたり他の人と絡んでたりするみたいでそれはそれで
見てみたいなぁなんて。

 

 

天魔王も成河さんも素敵すぎて頭から離れそうにありません、、

 

 


あと、青木崇高さんが演じる兵庫というキャラクターがいるのですが、とにかく明るくて愛すべきアホキャラ。
かっこつけられない兄貴キャラって感じなんですけどめちゃくちゃかっこいいしいい奴です。
関八州荒武者隊の兄貴分で、子分たちがいるのですが、その子分たちがとにかくみんな兵庫が大好き!!!
兵庫も子分たちが大好きでお互いに信頼しあっている関係性が素敵で。

子分たちが無界の里にきた天魔王から兵庫の兄と太夫を守るために全力を尽くして戦った姿、そんな子分たちの亡骸をみて死んだことを受け入れられない兵庫。
そんな兵庫にいい子分たちを持ったねって言う極楽太夫
このシーンは毎回毎回泣いてしまいます。

 

弱きものを助ける

 

いつもそう言っていた兵庫の教えをきちんと守り兵庫のように
戦った関八州荒武者隊のみんなは
多分一生忘れないほどかっこいい人達です。

 

 

 

1年経った今、思い返して見ても本当に素敵な舞台でまだまだ熱が冷めることはありません。叶うならばもう一度天魔王を生きる成河さんが見たい…。

 

いつかまた、髑髏城で会えることを願って。

鈴木先生感想- 私たちは 許されているだけ。

 

文章を書くことは好き。けれど文章を書くことは得意ではない。でもそんな私もこれは書きたい、、ゆっくりでも書かなきゃと思ったのが「鈴木先生」についてのこと。

 

 

 鈴木先生とは

 

 中学校の教師である鈴木は、『ごく普通』の生徒たちの心の問題に向き合うことを自身の教育方針として、自分の受け持つクラスや教え子たちの周りで起こる些細な、ときに重大な事件の数々を誠実に、情熱的に対応している。しかし、その一方では教え子の一人である小川蘇美に対する歪んだ欲望や交際相手である麻美との関係など、自身の心の問題にもひたすら悩む日々を送っている。そうした鈴木の内面を饒舌にかつ克明に描写していく。

(Wikipediaより引用)

 

 

 

最初は匠海くんが出てる〜太鳳ちゃんちゃんが出てる〜みたいな軽いノリで見ようかなってTwitterで呟いたのがきっかけ。フォロワーさんに「絶対好きな内容だよ!」って言われて、Huluで視聴。全10話と劇場版を全部見終わりました。

 

 

 

何だこれは………

 

 

 

何で今まで見てなかったんだろう。そう思うくらいの良作で、私の心の「好き」の部分にストンと入ってきた。学園物のドラマや漫画、アニメは好きなものが多くハマりやすい私だけれど、今まで見てきた学園物の中でも、そのジャンルの何処にも分類しづらい作品だった。

今まで私が見てきた類の学園物は、熱血先生が情熱論、根性論で生徒達を正しい道へと導いていくとても綺麗で美しい青春である。先生という存在もとても神聖に描かれており、ただの大人よりももっと特別な存在として語られていることが多かった。

 

 

しかし鈴木先生はどうだろう。

リアルで生々しく、とても綺麗とは言えない描写が多い作品だった。中学二年生という思春期真っ只中のギスギスした多感で自分勝手さが多い心。そして何よりもへの関心が大きくなる時期である。私がこの年代を舞台にした作品への関心が大きいのは、まさに上記した通りこの思春期という時期の少年少女のというものに関心があるからだ。

生きていく中で10代というのは本当に少しだけの時期だけど、人生の中で一番大事で一番残酷で一番美しくて一番貴重な10年だと思っている。この10年で生きてく上での価値観や性格、人間性などあらゆる面を構成し成長していく期間だと思っているからだ。そしてその10年の間、学校という場所で主に生きていく。性格も趣味も思考もバラバラな人間が一つの空間に押し込められ、共に学んでいきましょうという名目のもとそこで生きていく。

 

 

学校では、みんなが笑顔で楽しく学べる学校環境にしていきましょう。というのが主流であり、誰かが傷ついたり、問題が起きたりすることはなるべく避けられているように思える。けど鈴木先生(長谷川博己)の鈴木式教育メソッドでは楽しくて過ごしやすい雰囲気作りとは少し違っていた。誰もが過ごしやすいように多数派の意見だけを取り入れたり、常識や倫理観から逸脱してるからといって否定するだけではない。きちんと少数派の意見を聞いたり、何故それが駄目なのか、間違っているのかということの意味まで問うてくれるのだ。

 

 

例えば、この鈴木先生では1〜10 話までを通して「避妊の必要性」というテーマが何度も出てくる。私も学校の保健体育で性交渉をする際には避妊具を用いて行う事と習った。妊娠を防ぐため、病気を防ぐため。理由は多様にある。けれど、この学校の性教育により、つけてすればしていいと性交渉を認めているかのようにとる生徒もいるのだ。

鈴木先生避妊はしない派だと言う。それはただ単につけてしない方が快楽を味わえるからという理由ではない。つけてするということに何らかの疑問があるからだ。鈴木先生は相手と話し合い子供が出来てもいい、そういう意思がきちんとあるということを確かめあってからしたいからそれを選んでいる。それが正しいか間違っているのかはわからないし、それは人それぞれに答えがあるはずだから、きっと明確な答えというものは存在しないのだと思う。私はこの鈴木先生避妊はしないというのを聞いた時に、どこかしっくりくる部分があった。

 

私は日々付き合うとはどういうことを指すのだろうと考える。キスをする?体を重ねる?そうすれば付き合っているという?けれど、今、世の中では付き合っていない人間とキスをしたり抱き合ったりする人間は少なくないはずだ。テレビでもネットでも浮気や不倫、一夜だけの関係、そういうものを多々見かける。じゃあ付き合ってなくても抱き合うなら結局付き合うって何?何で浮気も不倫も減らないの?これは避妊をして性交渉しましょうという教えの結果なのだろうと思うのだ。これだけが原因とはもちろん言えないけれど、避妊をすればしてもいいと取れるような中途半端な性教育しか受けてこなかった私たちは性交渉に対する重みや責任感のようなものをどこか薄く感じているのではないかと思って仕方ない。例えば、抱き合うことの気持ちの部分や大切さ、もしくは鈴木先生のような考えを持った人が自分の意見を言っくれるような場所があったら、若年層の性交渉への認識が変わっていたかもしれないと思う。

 

鈴木先生は言う。「私たちには避妊という選択肢がある。それが正しいのではなく、つけてするということが許されている。」のだと。

 

正しいのではなく、許されている。

 

これは凄く大切な言葉だと思った。

避妊についてだけでなく、様々なことに対して言えることだけれど、私たちは何かを選ぶということを選択肢として許されている。決して教えてられたそれが正しいのではなく、許されているだけ。選ぶのは自分自身。だから鈴木先生はつけないという許されている選択をした。今まで避妊はして下さいという言葉に、そうか、そうだよね。とそれくらいにしか感じてこなかったことを鈴木先生を通してより一層きちんと考えなければいけないことなんだと感じることが出来た。

駄目。いけない。それだけではなく、何故ダメでいけないのかをきちんと自分で考え、選択することが大事なのだと思った。

 

 

 

学校生活において、先生が気にかけ手を焼く生徒というのは見るからに問題児で問題が目で見てわかるという生徒が主である。けれどじゃあ、優等生とされる手のかからない生徒は果たして助けを求めていないの? 鈴木先生は言う。「私たちが手のかかる生徒に時間を割けるのは、手のかからない生徒達の心の摩耗の上に成り立っている」と。

手のかかる生徒も手のかからない生徒も同じ年齢であり、同じ中学二年生という時期である。よく「あの子は大人っぽいね。人よりも心が大人だね。」そういう言葉を聞くことがあるけど、私は精神年齢が実体年齢を超えることは絶対ないと思っている。では、何故手のかからない生徒はそう思われ、現に優等生として存在しているのか。それを教えてくれたのは小川蘇美(土屋太鳳)だった。後で気になる登場人物紹介をしたいので簡素的に説明すると、小川蘇美は優等生そのもので鈴木先生も特別視しているようなそんな生徒だ。挨拶も完璧、成績も優秀、先生から好かれる模範生徒のような存在。鈴木先生もそんな小川蘇美を心の拠り所のようにしていた。けれど、ある時に小川蘇美は言った。「私も大人や先生に好かれるいい生徒を演じるから、先生もいい先生を演じてください。」と。

そう。彼女は優等生であり特別な生徒なんかではなく、優等生であり先生に好かれる生徒というのを演じているのだ。これは凄く心がすり減り摩耗する。こういう子達の演じてくれる優等生がいるからこそ、先生は問題児という存在に時間を割くことが出来る。そんな事考えもしなかったけれど、今なら何となく理解することが出来る。私たちは生きていく上でみんな何かを演じながら社会で生きている。優秀な社員だったり、愛想のいい店員だったり、優しくて柔らかい雰囲気のお母さんだったり。小川蘇美のような優等生の生徒はそれを中学二年生という若さで行っているのだ。心が疲れないわけが無い。普通に見える生徒にこそメンタルケアが必要で、時間をかけてやることが大切という考えも一理あるなと思った。

 

 

学校で生活していくということは、様々な意見、正しさ、正義、価値観を持った人達が生活していくということ。多様な意見が存在するけれど、何が正しくて何が間違っているのだろうか。

鈴木先生第九話、第十話ではデキ婚することになった鈴木先生を生徒達が鈴木裁判という名の学級討論にかける。そこはまさに地獄のような空間だった。周りの空気に流されて意味もわからず参加する子達、自分の気持ちだけで動いてしまう発案者、あちらこちらで様々な意見が飛び交い話し合いにならないという空気だった。その後議長としてきちんとまとめ役になってくれた竹地くん(藤原薫)のおかけで鈴木裁判は続くことになるのだけれど、そこからが私は好きだ。まずデキ婚の何がいけないのか、なぜ先生を裁くようなことをしなければいけないのか。色々な疑問から生徒達個人個人の家庭事情が暴露され、泣く子、呆れる子、冷静に聞く子、色んな生徒がそこに存在していた。けれどみんなに共通して言えることは傷つき心を痛めながらも、自分の思いや意見というものを主張し始めていたということ。明らかに成長していた。みんなが傷つき、嫌な思いをしながらでも心はきちんと成長し続けている。成長するというのは傷なしでは成し得ることが出来ないのだなと感じた。

 

ある一人の生徒が、結局鈴木先生は避妊をしたのか、していないのか問う。上記にも記したように、鈴木先生はつけない。そこで初めて生徒達の前で自分の性交渉のあり方を述べる鈴木先生だけど、そこでもまた賛否が出る。それが正しいのか、間違っているのか。無責任なのか。美しいのか。

 

竹地くんは言う。

 

「どっちが正しい、間違ってるじゃない。
両方が並立する考え方もあるんじゃないでしょうか。例えば、僕たちには「つけてする」という選択が許されている。「つけてしなさい」でも「つけてするべきだ」でもなく、それが許されているという考え方。それなら、かち合うことなく分かり合えます。」

これは以前鈴木先生が竹地くんへ送った言葉。竹地くんの中にきちんと残っていてくれたことが嬉しい。

 

そして鈴木先生が言う。

 

「現代は多様性の時代と言われている。だが、果たしてそうだろうか?

確かに、様々な価値観を自由に選択することが許されてはいる。

しかし、その結果、一人ひとりが自分に都合のいい意見に閉じこもり他人の異なった意見に耳を貸さない。

個々の胸の中は、結局、偏った考えに凝り固まって
貧しくなっているんじゃないだろうか?

一人ひとりが、たくさんの価値観を胸に抱き、面倒で苦しくても、向きあい 葛藤し、周りの価値観との共有を一生懸命探れば、僕らには別の道が開けてくるはずなんだ。」

 

 

つまり、個々の考えを持つことを私たちは許されている。その考えが正しいか、間違っているのかは別として、私たちには考えて悩み自分なりの正義を持つことをただ許されているだけなんだ。けれど、その許されている考えるという行為すら放棄してしまう人間も少なくない。鈴木先生の教えを受けた生徒達はこの鈴木裁判を通して、自ら考え、意見し、お互いの意見を聞き、傷つきながらも一生懸命共有するという新しい道を歩んでいるのだ。

 

自分の意見をもつということ、それを他者に意見するということは難しいことかもしれない。相手に合わせて何となくふわふわとしているのが楽かもしれない。けれど何かを必死に考え、それだけを絶対的正義とせず周りとの共有を試みる。生きていく上でとても大切なことなのではないかと思う。

 

これは完全に私の考えなので鈴木先生の教えとは脱線するかもしれないが、この世の中に生きている人、その数だけの正義と愛、考え方がその人たちの中に存在していると思っている。同じような考え方の人間は少なからずいるだろうけど、自分と全く同じ人というのはきっとどこにも存在しない。けれど、生きるというのはそれではいけない。他者の考えと自己の考えを共有し、互いに分かり合うことで私たちは生きている。分かり合うことが難しかったとしても、それを受け入れるということは出来なくても、その考え方に耳を傾け理解する努力をするという姿勢は大事にしたいと思って生きている。

 

私が良しとしている考えは相手にとっては悪かもしれない。私が嫌いで仕方ないものを相手は好きでたまらないかもしれない。良しと思うことも嫌いと思うことも私たちは許されている。けれど、自分の思うその感情や考え方を相手に押し付けるのは間違っているのではないかということ。分かり合うことは難しい。自分の意見を述べるということは自分の心をさらけ出すことだから、傷つくこともある。けど、苦しくて辛くて悲しくても葛藤し自分の考えをしっかりともち、相手と共有するという姿勢が大事なのだと鈴木先生の言葉を聞いて思うことが出来た。

 

 

足子先生(富田靖子)はそれが出来なかった人だ。

鈴木先生も足子先生も生徒を思い、教育というものに熱を持っているという根本は同じだと思う。

けれど、足子先生は自分の考えや教育が絶対だと考え、生徒達に考えさせる教育ではなく、押し付けるという教育をしてしまっていた。そこに自分とは違う考えと教育法をもった鈴木先生が来てしまったため、足子先生は受け入れることが出来なかった。共有し、参考にしようという気持ちすら足子先生にはなかった気がする。どれだけ熱意や愛情を持ったいい人であろうと、自分の考えの押し付けを始めてしまってはもう誰も理解しようとはしてくれないだろうと感じた。生徒達もそれは薄々感じていたのではないだろうか。

 

 

長々とまとまりのない文を書いてきてしまったけれど、ドラマ・映画の鈴木先生を通して私は考えることの大切さを再度学ぶことができた。正しさも正義も自分なりの考えを持つことを許されている。けれどそれは許されているだけ。それが絶対的正義ではないということ。そして物事に対して疑問を持つこと、そこからきちんと納得のいく理由を見出すことも大事なのだと感じた。思考停止させて周りに合わせて生きることは本当に楽だ。けれど私は考える人でありたい。そして周りの人にも考える人であって欲しいなと思う。私の考えとはまた違う新たな考え方を共有して、自分の中の幅を広げたいからだ。私の考えも他人の考えもけして間違いではない。自分なりの思いを抱くことは大切なことだと思う。その考えや思いはその人にしか生み出せなかったものなのだから。

 

私は鈴木先生を見ながら私自身鈴木学級の一生徒だったのだと思う。鈴木先生の教えが絶対ではない。けれど、私がこれから生きていく中で考えることの参考や導きになることだろう。

 

 

 

 

 

ここからは鈴木先生に登場する人物の中で、好きだったり、気になったりした人を個人的な感想と解釈として書かさて頂きます。

 

 

 

 

鈴木先生  

(すずきせんせい)

演- 長谷川博己

 

この物語の主人公であり、2-Aの担任。鈴木式教育法で生徒と向き合う。けど完璧ではないところが好きだった。生徒である小川蘇美のことを欲目で見ていたりとか。でもあれは恋愛感情というより、心の拠り所だったんじゃないかな。他の生徒とはどこか違う異質で神秘的な雰囲気でそれでいて救いの女神のような小川蘇美に母性を感じていたのではと思うシーンが多々あった。教師といえどただの人間なのだから何かに逃避したいという思いもあるんだろうな。生徒一人一人をよく分析していて、考える力が凄い。誰かを否定することもなく、なにか答えを出す訳でもなくて、生徒に考えるという選択肢を与える鈴木先生の教えはとても私の心にも響いた。ただ許されているだけ。この言葉も。その先は自分自身で考えること、という幅を残した教え方。好きだなぁ。間違っているけれど、なんで間違っているのかを教えてくれる先生はいなかったし、他者と違う意見を言うと変な目で見てくる先生もいた。鈴木先生はそれがなかったから本当に好きだった。自分の中で考え、それを大切にし、そこから他者に歩み寄るということを心がけて生きていこうと思う。考えるということの素晴らしさを教えて頂いた。

 

 

 

 

小川蘇美

(おがわそみ)

演-土屋太鳳

 

2-Aの生徒。鈴木先生が欲目で見てしまうのが理解出来てしまうほど綺麗で美しくそして神秘的な雰囲気をもつ少女。クラスに一人はいる他の子とは雰囲気が違う子。本当に綺麗なんだわ…見た目もそうだけど心が。鈴木先生と同じように私も彼女をどこか心の拠り所にしていた。小川蘇美を見る度に安心して、小川蘇美を見る度にときめいていた。この魅力は一体どこから来るんだろう。どうしてこんなに女神様のようにいれるんだろう。でもそれは小川蘇美自身が周りからそう見られるように優等生を演じていたからなんだよなぁ。それがわかった時に、そうか彼女もまた複雑な心を持つ、心を摩耗させているただの少女でしかないんだと実感した。けれど、演じる事が出来る人と出来ない人がいるわけで、小川蘇美はやはりどこか特別な部分があるように感じた。なんだろうなぁ。説明し難いあの雰囲気は。そこにいるだけで空気が変わるというか、ただいるだけで小川蘇美に魅せられる。こんな子がもし中学二年生という多感な時期にクラスにいたら確実に影響されるし、男の子だったら好きになってしまうんじゃないかな〜。現に2-Aには小川蘇美に惚れてる人が何人もいたわけだから。今更小川蘇美のようになりたいわけじゃないし、なれるとも思わないけれど、鈴木先生のように空想上の小川蘇美を心の拠り所にしてしまうことを許して欲しい。それほどに素敵な少女である。映画版の方で小川蘇美が、「自分のことを大切にしてくれる人が少しはいる。だから自分の体には自分のため以上の責任がある。」と言うシーンがあるのだけれど、そんな風に考えたことがなかったから凄くグッときた大好きなセリフ。

 

 

出水正

(いずみただし)

演-北村匠海

 

このドラマを知ったきっかけは匠海くんがこの出水という役で出演しているからだった。とにかく可愛くて、、めちゃめちゃに可愛くて、、。

(それは置いておいて)

出水は厳しい両親に育てられたとても真面目な生徒。彼はクラスの中でも冷静沈着で物事をしっかり落ち着いて捉えることが出来る子だと思う。心の中にちゃんとした自分の意見があっても、伝える術が下手くそな子だなぁ。げりみそ事件とか。優しさもあるからなんだろうけど、真っ直ぐにズバッとは言えないところももどかしく、中学生らしさと彼らしさが出ていて愛しかった…。そんな出水くんが成長したなと思ったのが映画版の鈴木先生だ。

小学校時代、全員参加の記名投票の生徒会選挙に出た誠意や熱意のある友人が、名前が有名な子役俳優の生徒に負けてしまい凄くショックを受けた経験があり、それ以来その小学校出身の出水くん達は無記名投票の中学の選挙では意識的にボイコットしていた。そんな中投票率をあげるために中学でも全員参加の記名投票が行われることに。選挙のシステムに疑問を持った出水くんは選挙に立候補し選挙演説の時に選挙システムのあり方について抗議した。1票に対する思いや重さが全くないやつと本気で投票したやつの1票が同じに扱われるのはいいことなのか。多数決で決めることが本当に正しいのか。少数派の意見は殺されてしまうのか。そう言われてみれば、私が学生の時にも生徒会選挙はあった。私も投票する時に選んだ人間は、知っている人や仲の良い人、その1票に重さがあるなんて考えたことがなかった。真面目なやつが馬鹿を見る。でもそれが生きていくということなのだと出水くんも理解しているのだ。けれど、もし本当にそんな社会なのなら、逃避する、投票しないという逃げ道だけは残しておいて欲しかったと。それを伝えるかのように生徒会選挙を通して意見する出水くんは鈴木先生が始まった当初の彼とは違って見えた。彼が自分の意思で、自分の口を通して意見を述べることが出来たということに深く感動したのだ。そして抗議するために生徒会選挙に臨んだ出水くんはもし自分が当選したら生徒会選挙のシステムを変えるという公約をする。すると出水くんは本当に生徒会長に選ばれるのだ。出水くんはブレない自分なりの考えをしっかり持ち合わせてる子。きっと生徒会長になっても自分なりの考えをしっかり冷静に持ってくれるんじゃないかなと思っている。頑張れ!

 

 

 

 

 

中村加奈

(なかむらかな)

演-未来穂香

 

凄く明るくてきって正義感の強い子なんだろうな。最初は苦手で、空気読めないのかなぁって思っていたんだけど、彼女は出水くんとは逆で思っていることをパッと口に出せるタイプ。それは凄く強さがいることで、中村さんは中村さんなりに沢山考えてるんだなって思った回があった。それは竹地くんがした行動によって中村さんが怪我をしてしまう回。中村さんが挑発したような形になってそれによって怒った竹地くんが中村さんを押して、倒れた中村さんにコンパスが刺さってしまうというシーンがあるんだけど、最初見た時は中村さんまた一言多いよ…って思ったんだけど、竹地くんに挑発的な態度を取ったのにはちゃんと理由があった。竹地くんの言ったある言葉が小川蘇美のことを傷つける発言だったためそれを守るために竹地くんに反発したのだ。私はそれを知った時に中村さんの優しさを初めて知る。その回ぐらいからかな。中村さんと小川蘇美の間に友情が芽生えたのは。小川蘇美にとって中村加奈は心の拠り所になっていたのではないか。そう思うようになった。中村さんといるときの小川蘇美は年相応の女の子に見えた。等身大の飾ることのない中学二年生の小川蘇美がそこにいる。正反対の2人のように見えるけど、それはきっと中村さんだからこそ小川蘇美も飾らないでいられるのだろう。

 

 

 

足子先生

(たるこせんせい)

演-富田靖子

 

 

足子先生〜!!足子先生は清々しいほどに自分本意な人だな〜。しかもそれが他人のことを思ってやっていると思っているところもまた…足子先生は生徒思いではあると思うし、自分なりの教育法で生徒のために教育してるのはとても伝わるのだけど、あまりにも自分が絶対という所が見えていて残念で仕方ない。鈴木先生と対比させて見るような描き方をされているのかなぁ。他者を批判することで自分を正当化するという人がいるというけど、足子先生が正にそれかな。自分とは違う教育法で生徒や先生からの信頼を得る鈴木先生に嫌な気持ちを抱くのはわからなくはないし、人間なら誰しも抱いてしまうかもしれない感情だ。けど、足子先生のその情熱や思いが、変わった行動や心理によって足子先生自身の株を落としてしまっていることが残念で仕方ない。映画版の最後の方で足子先生も少しだけれど変わってきていたから、足子先生もきっとこれから成長していくのだろうと思った。

 

 

 

 

 

 

本当にこの作品を通して、

考えること、正義と正しさのあり方、心というものについて沢山沢山問題提起され自分なりに見つめ直し考え直すことが出来た。何度も記しているが、何かを問題提起され、考えることを許されている。その先、考えるかどうかは受け取る側の自由なのである。すべての出来事において絶対的なものなど存在せず、正しさも正義も価値観も自分の心の中にしかない。それを他者と共有するかどうかも自分次第なのだ。他人と分かり合うことは難しい。私だけがその考えを持って生きていけばいいじゃないか。そう思うことも多々あるけれど面倒くさくて傷ついたとしても自分の心の中をさらけ出し相手との共有をはかることで、また1つ成長出来るのだと感じた。

 

この作品にもっと早く出会えていたら……

と思わない訳では無い。けれど、今この私だからこそこうやって捉えられるのであって過去の自分、もしくは未来の自分は今のように感じないかもしれない。人の気持ちや考えは少なからず少しずつ変わっていってしまうものなのだから。変わるということはけして悪い意味だけではない。だからこそ人の心は面白い。私はこの鈴木先生という作品を1度見るだけの消費物にはしたくない。何度も何度も繰り返しみてその度に色んなことを感じて、考えたい。

 

考えるということは無限であり、自分の中の可能性と知識を広げていく1番の方法なのだと思うから。

 

 

 

ここまでつらつらと長く纏まりのない文を読んで頂きありがとうございました。鈴木先生を見て私が色んな事を考えたように、もし少しでも気になっている方は鈴木先生を見て同じように悩み考えて欲しいと思います。受け取り方は人それぞれ、様々な答えがあると思うから。

 

 

映画  鈴木先生の主題歌のPVでなんとなくの雰囲気を掴んでいただけたらいいなと思います。

 

androp「Rainbows」special movie(『映画 鈴木先生』ver.) - YouTube